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2016年2月15日の衆院予算委員会で、元検察官だという民主党の山尾志桜里議員が、
安倍首相「安倍政権こそ、与党こそ言論の自由を大事にしている!」。
と豪語した安倍首相に、表現の自由の優越的地位とはどういう意味か知っているか、と追及する場面がありました。
う〜ん、さすがに安倍首相にこんな難しい質問をするのは無理かなという気がします。
大事なスピーチや国会の質疑を書き起こしてくださることで有名な小原美由紀さんのフェイスブックでの書き起こしによると、山尾議員が
総理このまえ、大串議員に、「表現の自由の優越的地位ってなんですか?」と問われました。
この時、総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由の証。」という、かみ合わない、謎の答弁をされました。法律の話をしていて、『自由の証』という言葉を私は、聴いたことありません。
この時、総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由の証。」という、かみ合わない、謎の答弁をされました。法律の話をしていて、『自由の証』という言葉を私は、聴いたことありません。
と質問したのに対し(自由の証 笑)、安倍首相は事務方の官僚に教えてもらって
「ま、これは、あの、ま、いわば、法的に 正確にお答えをすればですね、経済的自由、そして、えー、精神的自由より優越をするという意味においてですね、えー、この表現の自由が重視をされている、ということでございます。」
と答えました。
正確にお答えすれば、って言いながら、経済的自由が表現の自由が含まれる精神的自由より優越する、って真逆のことを答えてしまっています(笑)。
この件のやり取りは20分過ぎから。自民党の怒号のようなヤジを叱責する山尾議員の元検察官ぶりが凄い。
その後、安倍首相は
「ま、いわば、表現の自由がですね、この優越的な地位であるということについてはですね、これは、まさにですね、えー、経済的な自由よりもですね、精神的自由がですね、優越をされるということであり、いわば、表現の自由が優越をしているということでありますが、
いずれにせよ、ですね、それをですね、そうしたことを今、この予算委員会でですね、私にクイズのように聴くということ自体が、意味がないじゃあないですか。」
と、いつもの「クイズはやめろ」回答で降参しました。
さらに、安倍首相は開き直って
「そしてですね、もうひとこと言わさせていただきますとですね、先ほど、電波を止めるということについてですが、これは 菅政権においてですね、当時の平岡副大臣が全く同じ答弁をしているのでして、その同じ答弁をしているものをですね、これを高市大臣が言ったからと言ってそれがおかしいということについては、間違っているのではないか、このように思うわけであります。」
と、表現の自由の優越的地位とはまるで関係ない逆襲を試みるのですが、山尾議員から
「普段は民主党政権より良くなったと自慢して、困ったときは、民主党政権でもこうだった、と 都合よく使い分けるのは、やめていただけませんか?
ちなみに民主党政権では、「個別の番組でも政治的公平性を判断しうる」などと言う解釈はしたことはありませんし、放送法4条に基づく 行政指導もしたことはございません。
明らかに安倍政権に比べて、人権に対して謙虚に、謙抑的に、おだやか向き合ってきました。」
ちなみに民主党政権では、「個別の番組でも政治的公平性を判断しうる」などと言う解釈はしたことはありませんし、放送法4条に基づく 行政指導もしたことはございません。
明らかに安倍政権に比べて、人権に対して謙虚に、謙抑的に、おだやか向き合ってきました。」
と逆襲されて、黙らされてしまいました。
そのうえで、山尾議員が
「総理、もう一度お伺いします。精神的自由が経済的自由より優越される理由、総理は今、優越されるから、優越されるんだ、といま、おいっしゃいました。これは、理由になっておりません。これがわからないと、大変心配です。もう一度お答えください。どうぞ。」
と問い詰めると、安倍首相は
「内心の自由、これはですね、いわば、思想、考え方の自由を我々は もっているわけでございます。」
と支離滅裂なことを言ってしまいました。
内心の自由というのは、思想良心の自由や信仰の自由のように、人の内心にとどまる自由のことですから、自分の意見を外部に言う表現の自由とは違います。
というわけで、安倍首相を散々やり込めた山尾議員は、やっと答えを教えてくれました。
「・・総理は、知らないんですね。
(やいやい言ってた外野の声が、しん、となる。)
(やいやい言ってた外野の声が、しん、となる。)
なぜ、内心の自由や、それを発露する表現の自由が、経済的自由よりも、優越的地位にあるのか。
憲法の最初に習う、基本の「き」です。
経済的自由は、たいへん重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じて、これは直すことができるんです。
憲法の最初に習う、基本の「き」です。
経済的自由は、たいへん重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じて、これは直すことができるんです。
でも、精神的自由とくに表現の自由は、そもそも選挙の前提となる、国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。
これが、憲法で最初に習うことです。
これが、憲法で最初に習うことです。
それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのは、やめていただきたいと思います。」
もう少し解説しますと、報道機関が自由に取材や報道が出来て、国民が自由に上表を取得し、自分の意見も言える自由が表現の自由です。
この表現の自由が保障されることによって、国民は自分の政治的な意見を持つことができ、自分たちの代表者である国会議員を選ぶことができます。
逆に言うと、表現の自由が憲法違反の法律や行政処分で違憲状態にまで制限されると、国民の政治的意見が損なわれてしまい、国会議員の構成まで本来と違うメンバーが選ばれてしまうことになります。
このような違憲状態で選ばれた国会議員は憲法違反の法律を改めようとは絶対にしないでしょう。なぜならそういう違憲な法律でこそ、自分は選ばれたんですから。
これが、山尾議員が
「精神的自由とくに表現の自由は、そもそも選挙の前提となる、国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができない」
と言った意味です。
これに対して、財産権とか営業の自由のような経済的自由権も重要な基本的人権ではありますが、これが違憲な法律で侵害されたとしても、国会議員の構成を歪めてしまうということはないので、国会でこの法律を改正しなおすことが可能です。
このように、表現の自由はいったん侵害されてしまうと、二度と民主政の過程では回復不可能な人権なので、国会や内閣がこれを制約する立法や行政をした場合には、裁判所が経済的自由権の場合よりも厳しい基準で違憲審査をします。
いわば、表現の自由の規制に関しては、経済的自由権の場合よりも裁判所が立法権・行政権よりも広い判断権限を有することにより、表現の自由という、いったん侵害されたら取り返しのつかない権利を保護しています。
これが表現の自由の優越的地位と呼ばれる性質です。
そして、もうお分かりいただけると思うのですが、高市総務相が言ったような電波の停止という、放送局の報道の自由という表現の自由をもっとも制限するような行政処分は、この表現の自由の優越的地位に基づき裁判所が厳しい違憲審査基準で臨むことを考えると、憲法違反であると判断される可能性が非常に高いということになります。
山尾議員はこれが言いたかったんでしょうね。安倍首相が時間を無駄につかいのでここまで行きつけなかったようですが。
ちなみに、弁護士である稲田朋美自民党政調会長が2015年8月の記者会見で、表現の自由の優越的地位という言葉を使っているのですが、それが、ヘイトスピーチを規制するのが難しいという話の中ででした。
政府を批判する報道の自由を制限するときには表現の自由の重要さを忘れ、ヘイトスピーチを擁護するときには表現の自由の優越的地位を持ち出す安倍政権のアベコベぶりには驚くばかりです。
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