2017年8月24日木曜日

170824 昔ここで何があった?

アジア暮らし秘話

http://www.cssnet.co.jp/csl/hiwa.html

社長の私(前川利博)が、マレーシアに会社を興し、家族で移住するに至った動機や、暮らしのなかで感じたこと、面白いと思ったこと、不愉快でたまらないこと等々、 このコーナーでは取り留めもなく書いています。これを書き始めてからは、色々な方が当ホームページを見てくれるようになりました。 日本から励ましのメールを頂き感激することもあります。 そればかりか、新聞や雑誌に文章を書く依頼が舞い込んで来るなんて、夢にも思っていませんでした。 しかし、最近はアジアネタが少なくなってしまい“看板に偽り有り”状態ですね。 やはり約19年も当地に住んでいると、全てが日常に埋没してしまうのかも知れません。 もう少し、視点を変えて、ものごとを見る目を持たないといけないですね。

№53. 昔ここで何があった?

http://www.cssnet.co.jp/csl/csl_0553.html

去る2007年5月14日、自分が東京に出張しているときに国民投票法が参議院で可決され成立した。 既に日本国内では護憲/改憲論争が激しくなって来ていることと思う。 個人的には、実質違憲状態が継続している現状を、強引な解釈で取り繕うくらいなら、今の時代にあった第九条にした方が無理がないと思ったりもするが、 現在の第九条があるからこそ、この程度の状態(海外派兵等)に収まっているという意見も納得してしまう。 しかし、60年前にGHQが数週間で仕上げたという日本国憲法が現代社会に全てフィットするとは思わないし、占領国が日本を骨抜きにするための道具としたとも言われている“第九条”を 「絶対変更してはナラヌ!」といった意見も?マークだ。しかし、押し付けられた憲法とは云え“戦争はしない”という基本精神だけは大切にしたい。 難しい理論や解釈はともかく、普通に考えれば「独立国家として単独で自衛可能な戦力を維持しつつ、自衛の為には戦う権利を保持し、且つ、自分からは戦争を仕掛けたり、 ましてや侵略なんて絶対しません」というのが、国としての“当たり前”ではないかと思うが、違うのだろうか? 現代日本では、銃を持って外国を侵略することに賛成する人は殆ど居ないとは思う。 しかし、集団的自衛権の問題や、外国支援のための自衛隊派遣などは、議論が分かれるところだろう。 他国支援に関しては、それが真の国際貢献であり、且つ派遣先の国民から喜ばれているのであれば、日本の参加を求められることは光栄であり、先進国としての義務でもあると思う。 が、国際貢献の名を借りた超大国の侵略行為に加担させられ、おまけにカネ(戦費負担)まで無心される事態を、どうやって自分の子供達に説明したらよいか、私は分からない。 ましてアジア各国からは「また日本が侵略を始めるのでは?」と在らぬ嫌疑までかけられているのは、なんともやりきれないではないか。

平和(ボケ?)で、物質的にも恵まれた現代日本で暮らしている日本人は「日本が武力でもって他国に侵略するなんてことはあるワケない」と、当然のように考えている。 だが、先の大戦で直接被害を受けたアジア各国の高齢者達は「いつかまた日本人の侵略の遺伝子が表面化する筈だ!」と、警戒を怠れないのは不自然なことではない。 それは、彼らにとっては、あなたの家族を惨殺した犯罪者が刑務所から出て来て「私は更正しました。過去の忌まわしい記憶は忘れて、一緒に楽しく暮らしましょう」 と、言われているのと同等のことなのだ。 幸いにも、被害国の人が書いた本などでは「過去は過去として見つめつつも、発展的な友好関係を築くことが大切だ」と、我々に優しい。 しかし、彼らが優しいからと言って“過去”がキレイに清算されたワケではない。 国家間レベルでは、その“優しさ”の裏には、日本の経済力に対する“期待”が含まれていることは容易に想像がつく。 しかし、個人感情レベルでは「一部の狂人達(軍部)に、泥沼の戦争へと導かれた大多数の日本国民も被害者である」といった公式見解は納得出来ないが、 生きていくためには過去に目を瞑り、未来志向のスタンスを採らざるを得ない、といったところではないだろうか。 それが証拠に、首相の靖国神社参拝や、閣僚の不用意な発言等のセンシティブな問題に対する反応は極めて手厳しい。 「せっかく俺達が過去の犯罪に目を瞑ってやってるのに、お前達自らこの関係をぶち壊したいのか、戦争でナニをしてきたか忘れたのか?」 と、気持ちを逆撫でされた思いが爆発してしまうのだと思う。日本人は、これを“過剰反応”と簡単に片付けてはいけない。 (たとえ自国の都合で反日感情を政府が煽っている背景があったとしても、だ) なぜなら「欧米列強からのアジアを開放する」との大義名分はともかく、実際に日本兵によって辛い目に遭わされた民間の人々は被害者であり、 加害者が被害者の気持ちを全て理解するのは絶対的に困難だからだ。 被害者の気持ちを少しでも理解すること、それは、まず実際に何が行われたかを知ること抜きにはあり得ない。 何度「過去を反省しています」とエライ人が言葉で伝えたところで、我々自身が、何に対して反省しているのかも明確でないのでは、お話にならないではないか。 原爆の悲惨さや、東京大空襲の被害は、日本でもよく目にすることが出来るし、それを決定強行した米国は、過去も現在も許し難い。 ただ、広島や長崎に落された原爆を“日本人への天罰”と理解している人々も外国には存在するのだ。

私は現在マレーシアに暮らさせてもらっているが、この地(シンガポールも含む)も大日本帝国軍の蛮行による被害を受けた悲惨な過去がある。 日本では真珠湾攻撃のことはよく知られているが、その1時間前の1941年12月8日未明に、マレー半島東北部のコタバルに侵攻した日本軍のことは“真珠湾”ほど語られていないので、知らない若い世代の方も多いと思う。私自身、不勉強のまま当地に暮らし始め、うっすらとしか当地で行われた蛮行に関しての知識がなかったのだが、今現在は、関連する本や文書を読む機会も増えた。 一緒に働く従業員にマレー系イスラム教徒が加わり、以前から居た中国系従業員との歴史感のちょっとした違いなどもあり「いろいろ勉強してみようかな」と思っていた矢先、日本での改憲機運の盛り上がりで、今こそ、太平洋戦争(大東亜戦争)中に、当地で日本軍が行ったことについて見つめ直す時期ではないか、と、個人的にだが思いはじめたのだ。 もちろん、戦後生まれの私は事実をこの目で見ていないし、全ての情報は書籍やネットで調べただけだ。 言ってしまえば全て“引用”だ。そして、自分で経験したことではないので「全てが事実なのです!」などと断定する勇気は持ち合わせていない。 が、しかし、そんなことを言い出せば、古代史を語る学者などは皆、妄想家やイカサマ師になってしまう。 歴史認識に関しても、かなり重箱の隅を突っつき合う論争がメディアで行われているので、その辺に引っかかると面倒だが、 色々気にし過ぎてただ沈黙していては、過去は見えて来ない。 私自身、せっかく“現場”であるマレー半島に暮らしているのだし、日本人として、人間として二度と同じ過ちを犯さないためにも、これを機に “戦争中、当地で起こった、日本ではあまり積極的に語られない事実”を勉強してしまおうと思う。
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そもそも、日本が南方進出を決めた背景は、有名なABCD包囲網による国防資源(鉄くずや石油)の禁輸であったと言われている。その意味では安全保障上の決断と言えなくもない。 列強の兵糧攻めに対して南方に活路を見出したのだ。それは、重要国防資源の確保と軍の食料等の現地調達、そのための現地人の懐柔、抑圧を目的としていた。 それらは、日本の本来の意図とは別に、イギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人にとっては日本軍は歓迎すべき解放者であったかもしれない。 が、別の現地の人々にとっては、占領する国がイギリスにかわって日本が台頭してきたに過ぎない。 特に、1937年勃発した日華事変(中国人民抗日戦争,八年抗戦)を側面支援している華僑にとっては、“祖国の敵”にあたるため、日本軍の侵攻は、抵抗の対象でこそあれ、歓迎など到底出来るものではなかった。まして、目的を阻むと思われる現地人に対しては容赦ない弾圧を加える姿勢をとっていた日本軍は、彼等にとっては侵略者以外の何者でもなかった。

1941年12月8日、日本軍はマレー半島をタイ領シンゴラ、パタニ、そしてマラヤ領コタバルから大量の犠牲を払いながらも上陸した。 開戦と同時に“世界最強の不沈戦艦”プリンス・オブ・ウェールズと高速戦艦レパルスを撃沈し、チャーチルを失意のどん底へと叩き落した。 戦況把握が不十分なうえ、優柔不断なイギリス軍を尻目に、日本軍は破竹の勢いで英国軍アジア最大の要塞シンガポールを目指し南下した。 大量の自転車(MIYATA製らしい)による“銀輪部隊”での移動にもかかわらず、翌年1月31日には半島南端のジョホールバル、そして2月15日にはシンガポール(後に昭南島と命名)も陥落した。 その際、現在は観光名所として有名なセントーサ島の海に向けて構築された砲台は、陸地から攻め込んだ日本軍には“役立たず”だったらしい。 緒戦でのあざやかな勝利に日本国内では、旗行列や提灯行列でお祭り騒ぎだったらしいが、現地(現シンガポールとマレーシア)の中国系国民にとっては悲劇の始まりとなる。 陥落後に開始された“敵性華僑狩り”である。シンガポールで6,000人(4~5万人説有り)、マレーシアで7,500人(10万人以上説有り)の尊い命が“抗日分子”のレッテルを貼られ奪われたのだ。

【大検証(華僑粛清)】
シンガポール陥落の数日後に山下奉文司令官(やました ともゆき、「イエスかノーか?」と、英パーシバルに迫ったことで有名)の命令で、シンガポール在住の18歳から50歳(60歳と書かれた本もある)の男子が地域別に集められた。 住民達に目的は知らされていなかったが“敵性華僑狩り”である。集合場所は公園やゴム園、そして交差点やストリート、「食料と水持参で来い、従わない場合は厳重処罰(=死刑)だ」の命令に従い、中には3日間もストリートで大小便を通路の下水ですませて待った親子も居た。 この検証で“敵性でない”と判断されると服に“検”と印をつけられ開放され、“敵性華僑”と判定されると検挙され別の場所に集合することになる。 そこでトラックに乗せられ、海岸まで連行され、8~12人の群で電線で縛られ、海へ向かって歩かされる。 日本兵は海岸から機銃を掃射し、その後、海に入り致命傷を負っていない者を銃剣で止めを刺したそうだ。 奇跡的に生き残った人は「死体が散乱し、マーケットの屋台のうえの魚のような状態だった」と証言している。 また。ゴム園などでは、死体処理の手間を省くために、自ら墓を掘らせた後殺害したとのことだ。先日、仕事で面会した中国系の若い男性は「俺の爺さんは日本語がちょっと出来たので生きて帰って来れた」と言っていたが、“検”マークは、判定する日本兵の気分次第の部分もあったらしい。

【パリッティンギ(港尾:カンウェイ)、シンバ(新芭)の虐殺】
シンガポールにつづきマレーシアにも粛清の波はやってきた。 特にKLを囲むセランゴール州の隣、ネグリ・スンビラン州では、日本軍支配の及ばないマレー半島を縦貫する山脈の尾部であり、密林に潜む共産ゲリラや抗日分子とのつながりのある村も多く、日本軍の情報を流す村民も居たようだ。度重なる粛清(計6回も!)はその報復とも言われている。シンバ(新芭)では、1942年3月15日の午後、日本軍は自転車でやってきて7,8軒の住民を殺して家を焼き払った。それだけでも大変な戦争犯罪ではないかと思うが、これは翌日に行われる大虐殺の序章でしかなかった。 パリッティンギ(港尾)の虐殺は、生き残りの当事者が、日本に対して文章で補償を求めているので、それをそのまま引用したほうが分かりやすいだろう。 (別の本で読んだこの虐殺シーンは、粛々と村民を殺していく日本兵の行動がとても不気味だった)

孫建成(スン ジェン チェン氏)より海部俊樹首相宛の手紙(1989年10月3日付)
『拝啓 私、孫建成は日本占領下のマラヤの生き残りです。1942年3月16日日本皇軍によって私の家族9人が殺されたのを私は自分の目で見ました。祖母と私だけが幸いなことにその悲劇から逃れることができました。私はここにその悲劇の犠牲者として、私の家族に代わってこの問題についてのあなたの関心を喚起し、あなたが満足のいく回答をしていただくことを希望します。(中略)1942年3月16日朝7時、私はパリッティンギ村から出て、約40人の日本兵が自転車に乗って村に入っていくのを見ました。30分後、一人の日本兵が私の家に来て、彼について村の通りまで来るよう命令しました。私たちがそこに行ったとき、すでに数百人の村人が座っていました。そのとき村長は約80人の日本兵に食事を出してもてなしており、村人たちも心配なさそうに座っていました。村人は、食事がすんだら日本兵は我々に話をするのだろうと思っていました。しかし村人はだまされていたのです。まもなく大虐殺が始まりました。日本軍が村にやってきたのは村人たちと話し合うためではなく殺すためだったのです。私はその出来事の目撃者の一人です。私は9人の家族と600人の村人が殺されたことをはっきりと覚えています。(中略) 9人の私の家族が日本軍によって殺されたため、私の喜びの満ちた家庭が破壊されてしまったことは非常に残念です。私はその事件を忘れることができず、いつも記憶にあります。日本政府がこのことについて満足のいく返答をしていただくことを希望します。この虐殺事件で失われた生命と財産に対して、日本政府が補償をおこなうことを私は要求します。日本政府は1967年に2500万マレーシア・ドルの賠償をマレーシア政府におこないました。なぜ賠償がマレーシア政府には渡されたのに、虐殺の犠牲者の家族には渡されなかったのでしょうか。パリッティンギの人々は戦争をしていないのに日本軍によって殺されたのですから、私たちは補償を与えられるべきです。私の補償要求について、首相が満足のいく返答をしていただくよう心より希望します。ありがとうございます。敬具』 (林博史氏の『日本の現代史と戦争責任についてのホームページ』より引用)

【ペナン鍾霊中学教師・生徒虐殺】
今では、日本人駐在員が多く住み、日本からの旅行者も多い“東洋の真珠”ペナンにも悲惨な抗日の歴史がある。 ペナン観光は欠かせないペナンヒルの近くにある名門中の名門の鍾霊中学(含む高校)は、抗日運動の拠点として有名であった。 そのためシンガポール陥落後の1942年4月6日、日本軍は現地の協力者(密告者)の手引きで46人の教師と生徒を一斉検挙し、そして殺害した。 1947年に建てられた碑に書かれている内容が痛ましい。 『日中全面戦争が始まってから、その戦火はペナンにも飛び火し、残虐な事件があちこちで起こった。それに対し人々は怒った。自らは武器をもって戦えないが、金がある人は金を出し、力のある人は力を出すべきとして戦った。そして鍾霊の学生は愛国の情熱をもって終始一貫戦った。華人学校の中でも、とくに鍾霊の学生は最も抗日意識が強く、果敢に戦った。そのため南進を阻まれた日本側に敵視され、骨まで恨まれて手先により殺害された。また一網打尽のため、あらゆる残酷刑を施し、しかもその死骸が晒された。原爆投下により国の恥と家の仇は川の流れとともに東へ流れ去った。彼らは民族大儀のために犠牲になったので、ここ学校の中庭に記念碑を建て、彼らの功績を永遠にたたえて彼らの魂を慰め、その名を後世にとどめておこう』私はペナンヒルも極楽寺にも行ったが、鍾霊中学の存在は知らなかった。次回ペナンを訪れるときは絶対足を運んでみようと思う。

【拷問】
虐殺は逃れたが、共産ゲリラや、抗日活動をしていると疑われた人達に対して行われた拷問も悲惨だった。 電気ショックを与える。指先の爪や髪の毛を抜く。軍用犬に攻撃させる。 縛ったうえに水道のパイプを鼻や口や尻に差し込んで水を入れ、腹の上に乗って踏み付ける。 ある者は中国武術をやっていたがために、日本軍人の格闘技の相手にさせられ殺されたという。 更に惨い例では、抗日青年を匿っていたという“罪”で刑務所に連行されたある女性だ。裸にされ、逆さに吊られ長時間殴られ、タバコの火で失神させられた。 恐ろしいことに、女性の局部に数回も棒を差し込んだ後、オートバイの後ろに縛り付けて走り周り、結果死亡させたという。

【細菌戦部隊】
以前、森村誠一著の『悪魔の飽食』で読んだ旧満州731細菌部隊に似た組織が、マレー半島ジョホール州にも存在した。 精神病院を隠れ蓑として、極秘に培養されていたのはペストだと言われている。大量の蚤(ノミ)と鼠(ネズミ)を日本本国より空輸し、現地で飼育した後に、 ペストを媒介させ細菌兵器とする予定だったらしい。幸い、これらの“兵器”が実戦配備される前に終戦を向かえ、飼育されていた蚤や鼠は ペスト菌をうつされる前の状態で川に捨てられたため、被害はなかった。しかし、もし終戦が延びていたら現地人はもちろん、日本兵にも甚大な被害を与えたことであろう。

【慰安所】
“旧日本軍の展開するところ慰安所アリ”、マレーシアとシンガポールも例外ではない。 全土に点在し、未だ跡地の建物は残ってるものも多い。現地での性犯罪や性病抑止の為に設置運営された多くの慰安所は軍が関与したと考えられている。 この問題は非常にセンシティブな問題なので、あまり断定的な言い方は控えるが、「非常に多くの慰安所があった」そして「強制的に働かされている女性がいた」 と言われている。
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戦争中のこととは言え、マレー半島とシンガポールだけを見ても、随分沢山迷惑な行為を働いて来たものだと思う。いや、感心している場合ではない。 もし、逆の立場で私や私の家族が被害者であったなら、生涯加害者達を許すことは出来ないだろう。 平和に暮らしている家に土足で踏み込み、子供を殺し、妻を目の前で輪姦されておいて“過去の不幸な一時期”で済まされるわけがない。 まして補償(金銭)という最低限の償いも得られぬまま、寿命というタイムアウトで朽ち果てて行った人々の魂は、どこで眠れば鎮まるのだろうか。 日本兵に村民675人、子供も老人も殺された、というパリッティンギ(港尾村)の虐殺証言も、 死亡率9割以上の過酷な労働に、騙されて連れて行かれた、ビルマ国境テーモンタの泰緬鉄道建設のケースも 1967年9月21日の通称“血債協定”で清算済みとして、個人補償はされていないようだ。 矛盾するようだが、実は私は“日本は自虐史観を払拭すべし”という自由主義史観の意見はマクロでは賛成派だ。 500年に及ぶ欧米列強の残虐非道な非白人への略奪行為は、どんなに真実を隠蔽し、且つ歴史を美化しようとも被害者達の心まで騙せない。 そして、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)へと突入せざるを得ない状態に追い込み、戦後日本人のアイデンティティまで矯正したGHQには深い憤りを感じる。 しかし待て。歴史のマクロはともかく「その昔、日本兵達によってワシの一族全員(皆非戦闘員だ!)が虐殺された」と主張する爺さん達が存在する限り、 「虐殺は無かった」などと一律に否定し、彼らの気持ちを逆撫ですべきではない。(自虐史観払拭派の重鎮達ですら、関東軍の暴走等を認め“反省すべき”と書いている) 犯した罪を罪として正視せず、従って反省もなく、それでも相手の理解を得られると思うのは傲慢でしかない。 以前、私は自分の息子への医療ミスに対して医者(病院)の不誠実な対応について憤慨するコラムを書いた。 書いたは書いたが、もし相手が誠実にこちらの話を聞く態度であり、且つ過失であることを認めていれば、慰謝料などはゼロでも良いとさえ思っていた。 怒っていたのは、医療ミスを無かったことにするその態度に、だった。 なにも甚大な戦争被害と指一本を比べているのではない。たかが指一本の医療ミスに対してでも「そんな事実は無い!」とトボケられると、殺意を感じる程 ムカつくものだと言いたいのだ。被害が指一本ではなく、愛する家族や多数の友人の命であった場合はどうであろう?・・・答えは明白だ。

色々なことに無関心になりがちな忙しい現代日本人だが、アジアの人々と“わだかまり”なく付き合うための第一歩として、我々がしないといけないことは、 そんなに難しいことではない。それは“昔何があったか?”を知ろうとすることだ。 事実を知らないままでは、反省する心はおろか、補償問題に関する行動などは生まれない。 そして、日本人が犯していない罪まで、作為的に背負わされているとしたら、こいつはタマラナイ。 事実を事実として受け止め、濡れ衣は濡れ衣として主張し、反省すべき点は反省し、補償すべき個々の対象には謝罪と補償を考慮する。 (急がないと生存している補償対象者は少なくなるばかりだろう) これらを、タイムアウト待ちでスキップするか、前向きに対処するかで、当地で生活する日本人に対するの評価も随分と違ったものになることは確実だ。

さて、冒頭の国民投票だが、18歳以上国民全体の投票で憲法改正の是非を問うことは良い。 が、投票までに国民が学ばないといけないことは山のようにあるのではないかと思う。 投票用紙は○か×だけで、意思が無くても意思表示できる単純な方法だと思うので、護憲/改憲両陣営の主張には注意深く耳を傾けておきたい。 自国のことなので、外圧や他国の内政干渉を排除した議論が大切であることは理解できるが、これは正に“戦争の扱い方”を決める議論だ。 謙虚な気持ちで考えると当たり前のことだと思うが、護憲/改憲論争(第九条)を左右する鍵は、日本国内より、むしろ日本の外側の人々の気持ちの中にあると私は思っている。

尚、このコラムの日本軍の蛮行の部分は、陸培春(ルー・ペイチュン)氏の著書、『もっと知ろうアジア』と『観光コースでないマレーシア、シンガポール』の“乱用”と言われても仕方ないほどフル活用させて頂いた。 (稚拙な文章で赤面モノだが・・・)こういった、あまり語られない歴史の恥部を、未だ知らない若い世代の日本人に伝えることは 「日本人が自らの過去を知り、そして反省しないことには未来が生まれない」と主張される氏の趣旨と合致すると、勝手に解釈しているのでお許し願いたい。 また、KL日本人会で偶然お話させて頂いた或る方に“(記者として日本暮らしの長かった)陸培春氏は現在KLにお住まい”と聞いたが、もし機会があれば、直接講演などで勉強させて頂きたいと切に願う次第である。

(№53. 昔ここで何があった? おわり)

2017年8月23日水曜日

170823 辺野古移設問題の「源流」はどこにあるのか


辺野古移設問題の「源流」はどこにあるのか――大田昌秀元沖縄県知事インタビュー

  • 堀潤(ジャーナリスト)
  • 2015年7月3日

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私たちは「敗戦」を迎えたあの時代から続く一本のタイムラインの上をいまも変わらず歩き続けている。振り返れば戦前、戦中、戦後に隔たりはなく、かつての日常の連続の上に私たちの日々の暮らしがあるのだ。多くの犠牲と惨禍をもたらしたあの不条理な戦争の記憶は時の経過と共に薄れ、風化が進んでいる。しかし、ひとたび沖縄へ目を向けると、私たちが「風化」という言葉によって、いかに冷たい目線の投げかけに加担してしまっているか気づかされ、強い自戒の念を感じざるを得ない。なぜ、沖縄にあれだけの数の米軍基地が集中しているのか、私たちは知っているだろうか。報道で伝えられる「沖縄の怒り」という言葉の源流に想いを馳せることができているだろうか。  
私は米軍基地問題と向き合い続けてきた沖縄の歴史を知るために、先日、元沖縄県知事の大田昌秀氏をはじめ沖縄戦を体験した方々の元を訪ねた。
大田氏は1925年生まれの90歳。学徒兵として沖縄戦の戦場に駆り出され、およそ20万人もの人々が犠牲になったといわれる過酷な戦闘状況の中でなんとか生き残った。戦後は、研究者として、そして政治家として基地問題に関わり続けてきた。沖縄の米軍基地の歴史と内幕を一本のタイムラインで途切れることなく語ることができる、数少ない人物だ。
普天間基地辺野古移設の問題の本質は、戦前、戦中、戦後の歴史を紐解かなくてはなかなか見えてこない。読者の皆さんが歩むそれぞれのタイムラインとの接続をはかるため、まずは大田元県知事の証言をシェアしたい。

Photo by 堀潤

敵の米兵よりも日本軍の方が怖かった

――「戦後70年」というテーマで、米軍基地問題の源流を探る取材をしています。大田さんは1945年3月、沖縄戦の当時はどのような状況でいらしたのですか?
大田:当時、僕は19歳で、首里にある師範学校の生徒でした。戦争中、沖縄には12の男子中等学校と、10の女学校があったんです。それらすべての学校で、10代の生徒たちが戦場に出されました。普通は、そういう若い人たちを戦場に出すためには国会で法律をつくらなければいけません。ちょうど昭和20年6月23日――いまの慰霊の日ですね、日本本土で「義勇兵役法」という法律ができて、男性は15歳から60歳まで、女性は17歳から40歳までの人たちを戦闘員として戦場に出すことが初めて可能になりました。ところがそれは、沖縄戦での組織的抵抗が終わってからできた法律なんです。ですから、沖縄の若者は法的な根拠もないまま戦場に送り出されて、犠牲になりました。兵隊ですと「巻脚絆」といって、足を保護する布があるんですが、私たちは素肌で戦場に出なければならなかった。銃1丁と120発の銃弾と2個の手榴弾を持たされて、半袖半ズボンで戦場に出されたんですね。

Photo by USMC ArchivesCC BY 2.0
――大田さんは、手榴弾を抱えさせられて戦闘に投入されたと聞いています。そのときは、どんなお気持ちでいらっしゃいましたか?
大田:私たちは「皇民化教育」といって、天皇のために命を投げ出すのが人間として一番幸せなことだと叩き込まれていました。一方で、本土なら東京・神田とかに古本屋がいっぱいあって、自由主義、民主主義といった思想の本を密かに読めたんですが沖縄にはそういう本屋がなかった。県議会で「危険な思想の本は上陸させない」と決議されたので、船でも持ち込めなかったんです。ですから私たちは、皇国史観しか知りませんでした。「この戦争は欧米の帝国主義からアジアの人々を解放する神聖なる戦争だ」という言葉を鵜呑みにしていたんですね。試験管の中に入れて純粋培養するように、天皇制教育を徹底的に教わり、戦場に出たときもそのまま信用しておったわけです。

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ところが、戦争が日本軍にとって不利な状況になってきたときに、戦場で旧日本軍の沖縄住民に対する対応を否応なしに見せつけられました。
兵隊は、敵軍に気付かれてしまうから「子供を殺せ」と言う
例えば、住民がいたるところに壕を掘って家族で入っている。そこに本土からきた兵隊たちが来て、「俺たちは本土から沖縄を守るためにはるばるやってきたのだから、お前たちはここを出て行け」と言って、壕から家族を追い出して入っちゃうんですよね。一緒に住む場合でも、地下壕ですからそれこそ表現ができないほど鬱陶しい環境で、子供が泣くわけです。そのときに兵隊は、敵軍に気付かれてしまうから「子供を殺せ」と言う。母親は子供を殺せないもんだから、子供を抱いて豪の外に出ていき、砲弾が雨あられと降る中で母子は死んでしまう。それを見て今度は、別の母親が子供を抱いたまま豪の中に潜む。すると兵隊が近寄ってきて子供を奪い取り、銃剣で刺し殺してしまう……。そういうことを毎日のように見ているとね、沖縄の住民から「敵の米兵よりも日本軍の方が怖い」という声が出てくるわけです。

Photo by USMC ArchivesCC BY 2.0
――それは大田さんもご覧になった光景ですか?
大田:もちろん。こういう光景を見ていると、「一体この戦争とは何だ」と思わざるを得なくなって、旧日本軍に対する信頼感が一挙に失われたんですね。
私が戦争から生き延びて真っ先にやろうとしたのは、自分の中の疑問を明らかすることです。なぜこんな戦争に自分たちは巻き込まれたのか。なぜ僕らのクラスメートや同僚たちが、こんなにたくさん死ななくちゃいけなかったのか。彼らが家庭ももたないうちに死んでしまった理由を、どうしても明らかにしたいと思いました。それから20年間、アメリカの国立公文書館に通い続けて沖縄戦の記録や資料を手に入れ、分析した結果、日本がいかに間違ったことをしてきたか、なぜ沖縄が巻き込まれたのかがわかりました。

Photo by CliffCC BY 2.0
――戦後、沖縄の本土復帰の過程において、米軍基地が沖縄にどんどん移されていきますよね。時を経ていま、辺野古の問題が解決されないまま立ち往生しています。大田さんならこの問題をどう解決していきますか?
大田:いま、世論調査をしますと、沖縄住民の83%が普天間飛行場の辺野古移設に反対しているんです。本土でも辺野古基地移設に反対する人は少しずつ増えていますが、全国世論調査の結果を見るとまだまだ賛成反対両派が拮抗しています。私には本土の人たちが中身を知らずに賛成しているように見える。つまり、ただ辺野古へ基地を移設すればいいという話ばかりが言われて、どういう基地ができるかを知らないんですよ。

公文書が教えてくれた辺野古問題の原点

1995年5月に少女暴行事件が起きました。それを受けて沖縄県民8万5千人が抗議大会を開いたら、日米両政府が慌てました。「SACO=沖縄に関する特別行動委員会」というのを組織して、沖縄の基地を閉鎖する考えを発表したんです。そこで日米両政府が出した中間報告と最終報告を丹念にチェックしたら、日本政府の報告書に、普天間飛行場を5分の1に縮小して辺野古に移すと書いてあった。現在の普天間飛行場の滑走路の長さは約2600メートルですから、それを約1300メートルに縮めて前後に100メートルの緩衝地帯を設け、長くても1500メートル程度に縮小して移すと。建設期間は5~7年で、建設費用は5000億円以内というのが、日本政府の当初の方針だったのです。ところがアメリカ政府の最終報告では、MV22のオスプレイを24機配備し、これが安全に運行するために2年の演習期間が必要なので、建設期間は少なくとも12年。建設費用は1兆円、運用年数40年、耐用年数200年になるような基地をつくると、はっきり書いてあるんです。そんなものができたら、沖縄は未来永劫基地と共生しないといけなくなります。だからこれは絶対にダメだと言いたいわけです。

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いまも吉田元首相の発言が生きている
本土では知られていませんが、吉田茂元首相が当時の外務省条約局長の西村熊雄に、サンフランシスコ平和条約の締結条件を早くアメリカ政府に出すよう指示した記録があるんです。その中に「琉球は将来日本に返して欲しいが、いまは米軍が軍事基地として使いたがっているから、99年間のバミューダ方式で貸す」という内容があるんです。私はそれを見たときに、アメリカとアメリカの意向を忖度する日本から「耐用年数200年」という発想が出てくるのは当然だと思いました。いまも吉田元首相の発言が生きているんでしょう。
普天間飛行場の移設先について、日本政府は最初、辺野古とは言わなかった
私は沖縄県知事になって、まず最初に沖縄県公文書館をつくりました。アメリカで修士号をとった沖縄出身の優秀な学生を県の職員に採用して、アメリカの国立公文書館に9年間みっちり通わせ、沖縄の関連で公開解禁になった資料を片っぱしから送ってもらって資料を集めました。普天間飛行場の移設先について、日本政府は最初、辺野古とは言わなかった。「沖縄本島の東側海岸」といってごまかしていたんですね。それが辺野古と決まったときに、当然疑問に思って公文書資料をチェックしてみたんです。そうしたら驚いたことに、意外な事実がわかった。
そもそも普天間飛行場の辺野古移設は、1996年に橋本総理と私との間で始まった話だと思っていました。同年4月の米クリントン大統領の来日前に、秩父セメントの諸井虔会長が、橋本総理の密使として私に会いに来られたんです。「2人きりで会いたい」という話だったので、会ってみたら、諸井さんは「友人の橋本が『沖縄が基地を引き受けてくれない』と言って、苦労している。なんとかならないか」と言ってきたんですね。それで私は「申し訳ないが、われわれは沖縄戦を体験している。200年も存在し続けるような基地を引き受けることは到底できません。基地を引き受けたら、次に戦争が起きたときに真っ先に沖縄が戦場になってしまう。総理が安請け合いして『沖縄が基地を受け入れる』と言ってしまったら、アメリカは契約社会だから、その約束を守れなければ信用が傷つきます。だから、あなたが本当の友人だったら、橋本総理に率直に、沖縄は基地を受け入れる気はまったくないと伝えて、総理を傷つけないようにしてください」と申し上げたんです。

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ちょうど同じころ、1996年1月に沖縄は「基地返還アクションブログラム」という要望を日米両政府に出しました。2001年までに1番返しやすいところから10の基地、2010年までに14の基地、2015年には嘉手納飛行場を含めて17の基地すべてを返還してくれという要望です。そうすれば、沖縄は基地のない平和な社会を取り戻すことができる。これを日米両政府の正式な政策にしてくださいと提出したら、諸井さんが「2001年までに10の基地を返してくれとのことだが、最優先で返して欲しい基地はどこか?」と尋ねてきたので、「それは普天間です」と言いました。なぜなら普天間は周辺に16の学校があり、病院や市役所もあって、さらにクリアゾーンという本来建物をつくったり、人間が住んだりしてはいけない区域に普天間第二小学校ができていて、3000人が住んでいる。だから一番危険な普天間を真っ先に返してくださいと言ったら、2015年までに普天間を加えた11の基地を返すことで、日米両政府が合意したんです。すごく喜びました。ところが後になって、そのうちの7つについては沖縄県内に移設するというんですよ。移設するときにはコンクリートでつくるので、耐用年数が尽きるまで米軍が使えてしまう。だからわれわれとしては、「県内に7つも移設するのは到底納得できません」と返したわけです。
アメリカ政府は沖縄が日本に復帰して、日本国憲法が適用されると、沖縄県民の権利意識がますます強まって基地の運用が厳しくなると考えた
ところがですね。県の公文書館にある資料を読むと、別の事実が書いてあったんです。1953年から1958年まで、米軍が沖縄の農家の土地を強制的にとりあげて軍事基地に変えていった時代に、「島ぐるみの土地闘争」といわれる、沖縄の歴史始まって以来の大衆反米行動が起きました。そうした中で、沖縄の日本返還の話が1965年ごろに始まるわけです。アメリカ政府は沖縄が日本に復帰して、日本国憲法が適用されると、沖縄県民の権利意識がますます強まって基地の運用が厳しくなると考えた。アメリカにとって一番重要な基地は嘉手納以南の人口が一番多い地域に集中している。それをひとまとめにしてどこかに移そうと計画を立てて、アメリカのゼネコンまで入れて西表島から北部の方まで全部調査したんです。その結果、辺野古のある大浦湾が一番いいという結論になった。なぜかというと、水深の浅い那覇軍港は水深が浅くて航空母艦を入れられないんです。ところが辺野古のある大浦湾は水深が30メートルあるので航空母艦を横付けできる。そこで滑走路だけではなく、海軍の巨大な桟橋をつくって航空母艦や強襲揚陸艦を入れ、さらに反対側には核兵器を収容できる陸軍の弾薬庫をつくる計画を立てたわけです。

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半世紀前に計画した基地が、全部日本の税金でできるようになった
2009年、民主党に政権交代が起きたことを機に沖縄返還交渉時に交わされた密約が明らかになりました。沖縄が日本に復帰して憲法を適用されても、アメリカの基地の自由使用は認め、いつでも核兵器を持ち込めると約束されて安心していたのです。しかし、密約が交わされた当時、アメリカはベトナム戦争で軍事費を使ってしまって金がなく、建設費も移設費用もすべて米軍の自己負担だったため、この計画は放置されたのです。そしていまになって――実に半世紀ぶりにこの計画が息を吹き返しているわけです。現在は移設費から建設費、維持費、思いやり予算まで、みんな日本の税金で賄っています。米軍としては、こんなにありがたい話はない。半世紀前に計画した基地が、全部日本の税金でできるようになったわけですから。米軍が辺野古を推すのにはそういう背景もあるんです。

辺野古移設は日本国民全員に関わる問題

大田:普天間の副司令官・トーマス・キングがNHKのインタビューに答えて、辺野古には軍事力を20%強化した基地をつくると言っています。いまの普天間飛行場は爆弾を積めないので、米軍のヘリ部隊がアフガン戦争やイラク戦争で出撃するときは嘉手納に行く必要があるからです。辺野古に移したら、陸からも海からも自由に爆弾を積める施設をつくるのだと。MV22オスプレイも、24機配備する。そうすると現在の普天間飛行場の年間の維持費は280万ドルだけれど、辺野古に移ったらこれが一気に2億ドルに跳ね上がる。これを日本の税金で賄ってもらおうと言っているわけですよ。つまり、辺野古に基地をつくったら、耐用年数200年で1兆5千億円という関西新空港並みの予算規模の基地になる。本土の皆さんはこういうこと――自分たちの頭の上にどれだけの財政負担がおっかぶさってくるかを知らないから、「賛成」と言っていられるんです。
――本土の皆さんには何を訴えたいですか?
辺野古基地移設の問題は、場所を移すかどうかだけではなく、どういう基地をつくるのかということも含めて真剣に議論していただきたいですね。1兆5千億円かかると言われている財政負担が「思いやり予算」という名目で、どれだけ自分にかかってくるのかも。そういうこともきちんと考えないと、とんでもないことになりかねないと心配しています。そんなに財政のゆとりがあるなら、福島県の復興を1日でも早く進めるべきですよ。
日本本土の国益の名において、沖縄は絶えずモノ扱いされ、政治的取引に利用され続けてきました
沖縄は本土復帰するまで、憲法が適用されていませんでした。それはつまり、憲法にうたわれている人間の基本的な権利が担保されていない――人間が人間らしく生きていけないということなんです。日本本土の国益の名において、沖縄は絶えずモノ扱いされ、政治的取引に利用され続けてきました。ですから、沖縄には怒りが満ち満ちているわけです。

Photo by 初沢亜利

私たちには考え続ける責任がある

大田元知事へのインタビューを終えた翌日、私は普天間基地を利用するアメリカ海兵隊の将校にインタビューするため、宜野湾市や沖縄市にまたがるキャンプ・フォスターを訪ねた。取材に応じてくれたルーク・クーパー中尉に「辺野古は唯一の選択肢だという日本政府の方針は本当か?」と尋ねた。かつて森本敏元防衛大臣が「軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると沖縄が最適な地域だ」と語っており、つまり本土では受け入れの理解が得られないから沖縄にあるという趣旨の話をして話題になったことがある。
クーパー中尉はまず辺野古移設に関しては「日本政府が選択して決めたことです。私たちにとって大切なのは任務が適切に遂行できる場所であるということ。それが担保されればどこへでもいきます」と語った。その上で、「海兵隊は空陸任務部隊というのが基本になっており、航空部隊と地上部隊、兵站部隊の3つが一緒に活動しています。中心的部隊である航空部隊は岩国や普天間にあり、韓国、ハワイにも分散して配備されていますが、それぞれの地域から必要な任務を遂行できるようになっています。先日のネパール大地震の際には、フィリピンで訓練をしていた部隊が急遽ネパールの支援に向かいました。海兵隊というのは、状況に応じて臨機応変に迅速に対応する部隊です。そのための条件として、3つの部隊が常に緊密に活動する必要があります」と説明。辺野古移設は日米両政府の合意事項であり、日本政府の選択だと海兵隊は強調する。
私は今後も取材を継続することで沖縄との関わりを続けたい。日米安保反対、ベトナム戦争反対といった反戦・反米運動の作用から米軍基地の多くが本土から沖縄に移されていった。自分の庭からやっかいな問題が取り除かれればそれで良かったのか。私たちには考え続ける責任があるはずだ。

2017年8月14日月曜日

170812久米宏 ラジオなんですけど

大友 洋樹さんフェイスブックより

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1456182304468534&id=100002303361854

久米宏氏「8月9日水曜日、東京の気温が37度1分だった時、暑かったでしょう。3年後の8月9日は、オリンピックの閉会式なんです。イコール、男子マラソンがある日なんです。37度1分、思いだすのも嫌な位暑かったんです。あの日が3年後の閉会式なんですね。僕、2020年の東京オリンピック開催に関しては、ず〜〜〜と前から反対だと言い続けてて。こないだ日刊ゲンダイにですね、その話をしてあげたら思ったより大きく載りましてですね。オリンピック反対な理由は幾つもあるんですけど。今、日本が置かれた状況はオリンピック以外に、解決しなけりゃいけない事がたくさんあるんですよ。年金の問題にしても、保険の問題にしても、東日本大震災の後始末の問題にしても。それからもう1つ、これ以上東京に一極集中してどうするんだ?東京は間違いなく直下型地震、間もなくありますから。そん時のダメージを少なくする為に、東京に集中させちゃいけないんです。これ以上」
「だからもし、オリンピックをやるんだったら、東京以外でやるべきだっていうのが僕の考え方なんです。東京でオリンピックやって、もっと東京に一極集中して、日本に取って良い事ないって話を日刊ゲンダイに載せたんですけど。そうしたら、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会報道局広報部から手紙が来ました。つまりお叱りです。僕の言ってる事が如何に間違ってるかという。反論の中で例えばね。東京の一極集中を進めるから反対だと言ってるんですけど。そういう事に全く触れていない。主に、この反論は開催時期についての反論です。公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会報道局広報部が言っている、開催時期の主張というのを皆さんにご紹介したいと思います。僕は夏は反対だって言ってます」
「酷暑の東京でオリンピックをやるって事は、間違いだって僕は言ってるんですけど。それに関する反論です。『第32回オリンピック競技大会に於いては、招致の段階で開催時期は2020年7月15日から8月31日の期間から選択するものと定められていました。この期間外の開催日程を提案した招致都市はIOC理事会で、正式立候補としてすら認められていませんでした』と、分かります?言ってる事が。IOCの理事会で、もうこの時期だと決めていたんで、これ以外の事は考えられないという反論なんです。こういう反論を何と言うか知ってますか?語るに落ちるって言うんです。IOC理事会は夏の開催しか認めないとして、夏以外の期間を申し込んだ都市は立候補すら認められなかったと言ってるんで、やむを得ず夏の開催を認めてオリンピックを招致したと、オリンピック委員会は言ってるんです、日本の」
「如何に馬鹿かっていうの分かるでしょ?つまり、日本にオリンピックを招致した人達は、夏の開催だと承知して引き受けたんですよ。つまり、東京オリンピックに世界中から集まるアスリート達のコンディションの事を考えたんじゃないんです。オリンピックを招致する事が如何に大切かを考えたんです。つまりアスリートファーストっていうのは、噓八百なんですよ。オリンピックを招致する事が目的だという事を、もう言ってるんです、ここで。期間はIOCの理事会が決めてて、これ以外の開催時期は選べなかったんで、仕様がないじゃないかって言ってるんです。全ての責任をIOCの理事会に押し付けてるんです。ですからオリンピックを招致する事が、日本の人達の目的で、スポーツを愛するんじゃないんですね」
「僕は前から言ってるのは、日本にオリンピックを招致した人達は、スポーツを愛していない。オリンピックだけを愛してるんだ。だから馬鹿なんだと言ってる訳なんです。だから開催時期は、10月10日の53年前の東京オリンピックが開催した日の、あの日本に取ってレガシーである10月10日の開催に、何としてもしてくれと、IOCに直に頼め!と僕は言ってるんですよ!IOCの理事会は、何故夏の開催じゃなきゃ駄目かっていってかと言うと、アメリカの3大ネットワークが出す金です。基本的にIOCもFIFAも、ここだけの話ですけど、殆ど金で動いてます。オリンピックもゼネコンに行く金なんです。基本的にはお金の巣窟なんです。オリンピックっていうのはね。だから、夏じゃなきゃ駄目だって言ってるんだったら、東京は招致に立候補するのを辞めるべきだったんですよ」
「それを招致しといて、夏だけどやるんだって言ってるのは、スポーツマンを愛してるんじゃないんですね。オリンピックだけを愛してる。で、8月9日が閉会式だって事は、僕勘ぐる方ですから、8月9日って長崎に原爆が落ちた日なんですよ。当然広島に落ちた8月6日は、3年後はオリンピックの真っ最中なんです。広島の原爆慰霊の日も、長崎の原爆慰霊の日も、東京でオリンピックの馬鹿騒ぎをしてるんです。3年後は。そうすると、東京にオリンピックを夏に招致した人達は、原爆が落ちた日、長崎に落ちた日も、広島に落ちた日も、やがてはなかった事にしたい。その為に東京で真夏にオリンピックをやるんじゃないかと、僕は下衆の勘繰りをしてる。これは勘繰りし過ぎでしょうかね?公益財団法人のオリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の広報の方は、今日の放送をどうお聞きになったか?またご感想があったら送って下さい。またラジオの方でご紹介したいと思います」
久米宏 ラジオなんですけど 8月12日より
http://radiko.jp/#!/ts/TBS/20170812130000

2017年8月13日日曜日

170812全否定は過去見誤る 国際政治学者・三浦瑠麗さん

◆全否定は過去見誤る 国際政治学者・三浦瑠麗さん

http://amp.tokyo-np.co.jp/article/culture/hiroba/CK2017081202000195.html

 まず、「戦前回帰」を心配する方々が思い描く「戦前」のイメージに不安を覚えます。大日本帝国が本当の意味で変調を来し、人権を極端に抑圧した総動員体制だったのは、一九四三(昭和十八)〜四五年のせいぜい二年間ほどでした。それ以前は、経済的に比較的恵まれ、今よりも世界的な広い視野を持った人を生み出せる、ある種の豊かな国家だったと考えています。それを全て否定するのは一面的で、過去を見誤っています。

 「今は、あの二年間に似ていますか」と聞かれたら、私は「全然似ていない」と答えます。「『共謀罪』法が治安維持法に似ている」というのも誤った分析。現代は当時のような共産主義やアナキズム(無政府主義)の脅威がありませんし、民主政治は成熟しました。人権を守る強い制度も定着した。あの時代のような拷問や弾圧が容認されるはずがないでしょう。警察官もはるかにプロ意識のある集団に育ち、抑制が利いています。

 「戦前回帰?」の議論は元をたどれば改憲論議。現在の憲法改正を巡る議論は、護憲派、改憲派ともに不十分な点が多い。

 まず護憲派。悲惨な敗戦と、あまりに大きな犠牲を払った総力戦への反省に立脚する平和主義は、一国だけのものですか、と問いたい。日本が戦争をしないことにしか関心がない考え方は、世界に向かって普遍的に説明できるものではありません。志が低い。矮小(わいしょう)化された平和主義が、すでに国民の過半数の支持を得られなくなっている。それが今の状況でしょう。

 改憲派は、一九四七年に連合国軍総司令部(GHQ)に押しつけられた憲法を否定し、少しでも変えることに固執していますが、こちらも小さい。安倍晋三首相は五月、憲法九条に三項を加える「自衛隊の明文化」を提案しました。連立相手の公明党への配慮だと思います。でも、それでは本質的な矛盾は解決しない。私は「戦力不保持」を定めた二項を削除すべきだと考えています。

 改憲の議論を見ても、国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人が育たなくなっていることが分かる。残念なことです。台湾の李登輝・元総統を見てください。困難な状況下で骨太の政治理念を養い、民主化を主導した名指導者ですが、彼を育てたのは戦間期(第一次世界大戦と第二次大戦の間)の日本であり、戦後の日本ではないのです。
 (聞き手・中野祐紀)

 <みうら・るり> 1980年、神奈川県生まれ。東京大大学院法学政治学研究科修了。東大政策ビジョン研究センター講師。『シビリアンの戦争』『日本に絶望している人のための政治入門』など。

2017年8月12日土曜日

170812安倍総理の憲法解釈

さすがに2度目の総理就任後は、公の場でこんな発言は封印しているのだろう。しかし2011年、2012年と少なくとも2度、彼が憲法成立過程を正しく理解もせず、怪しげな憲法観や牽強付会な憲法前文の解釈を堂々とNHKやネット放送で披瀝していたことをゆめゆめ忘れてはなるまい。

(1)

壷阪道也 @gomizeromirai
少なくとも6年前の安倍総理は憲法前文を読解する能力=国語力がなかった。まあ「馬鹿」かも・・・
この憲法はいじましい「国語ができない」安倍総理
2011年9月3日 BS11 未来ビジョン073
『安倍晋三元総理が訴える憲法9条改正論』
司会:生島ヒロシ、千綿舞子 より

https://youtu.be/cn9BcWLOzPU




https://mobile.twitter.com/gomizeromirai/status/895914063716204545



(生島ヒロシ) 一方で、"平和を愛する諸国民"とは言えない国に対しては憲法は適用されないいう見方、考え方もあるのですけれども、この点安倍さんはどうお考えですか?

(安倍) "平和を愛する諸国民"って誰ですか?ということなんですね。この66年間ですね。それではその国々って国連の安全保障理事国ですか・・?

アメリカだってずっと戦争してますよね。
イギリス、フランス、ロシア、中国だってまさにそうじゃないですか!

どこもいないんですよね。

ですからこれは("平和を愛する諸国民")
インチキなんですよ!(生島 (笑))

ねえ、これは、日本は戦争に負けましたから、敗戦国は詫び証文を書けって。詫び証文をね、しかも自分で書いたんじゃないんですよ。

これはアメリカのね、いわば25人のうちのひとりがですね、たったひとりの人物がこれを書いたんですよ。

で、これはここに書いてあるんですよ。

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と。

"専制と隷従、圧迫と偏狭"というのはね、無くさなくてはいけないと考えている主語はね"日本人"じゃないんですよ。

こう考えているのは"平和を愛する諸国民"、この人たちがこう考えているから、"この人たちに誉めてもらおうじゃないか"と書いてあるのですね。

まことにいじましいでしょ。(生島 (ハナ笑))

こんないじましい文章(憲法)をよく66年間も大切に拝んできましたよね。(拝むポーズ)
もういいでしょ。これは。(頷く生島)

(アレ、放送時点で公布から65年なんだが?)

(2)

壷阪道也 @gomizeromirai
5年前の安倍総理は、憲法前文の読解力がゼロだった。ちなみ、質問する女子学生は東京都議選千代田区で内田氏の後継候補だった中村彩氏だ。(恥)
安倍総理の本音・いじましいんですね。みっともない憲法ですよ
2012/12/14 に公開
政治家と話そう:自由民主党 安倍 晋三 総裁 より

https://mobile.twitter.com/gomizeromirai/status/895812639544168448





あの日本国憲法の前文にはですね。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」
と書いてあるんですね。

つまり
「自分たちの安全を世界に任せますよ」
と言っている。

そして
「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないんですよ

国際社会がそう思っているから助けてもらおうと。
いじましいんですね。
みっともない憲法ですよ、はっきり言って。

それは日本人が作ったんじゃないですからね。

そんな憲法を持ってる以上ですね、
外務省も
自分たちが発言するということは
憲法上義務付けられていないんだから


2017年8月7日月曜日

20170806広島市平和記念式典

2017年8月6日広島市平和記念式典。広島市議会議長、松田一実広島市長、湯崎英彦広島県知事、グテーレス国連事務総長(中満泉事務次長代読)がそろって核兵器禁止条約に言及するなか一人条約にいっさい言及しなかった安倍総理。

言及しないどころか式典後の記者会見では「核兵器禁止条約は核兵器なき世界を遠ざける」
http://youtu.be/EnMrojakos4 youtu.be/EnMrojakos4

核兵器禁止条約の交渉会議に不参加を表明した高見沢軍縮会議日本政府代表部大使の発言と同じ主張。「交渉不参加表明 」- 毎日新聞 http://mainichi.jp/articles/20170328/k00/00e/030/172000c

松田一実広島市長宣言
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/
湯崎英彦広島県知事
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/52/29heiwakinensikitentijiaisatu.html
アントニオ・グテーレス事務総長(中満泉・国連軍縮担当上級代表代読)
http://www.asahi.com/sp/articles/ASK8671NCK86PITB022.html
安倍総理
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/