益川敏英さん「憲法9条を守ろう、どんな小さな声でも集まれば大きな声になる」
国家は巧みに国民すべてを取り込み、精神動員をする
戦争に対し、一人一人の市民はどのように向き合うべきなのか。国家権力の巨大な意志に対し、どのように相対していけばいいのか。ノーベル物理学賞を受賞し、記念講演では反戦演説を行った理論物理学者、益川敏英さん(75)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
「不謹慎だ。アカデミックな場にふさわしくない」。箱根峠の向こうから、ある学者が批判しているとのうわさが聞こえてきたんです。ストックホルムでのノーベル賞の授賞式(2008年12月)に出発する前です。世界中の人々が集まる記念講演で、太平洋戦争での実体験を話すつもりでした。それを「晴れの舞台で、話すようなことではない」と苦言を呈しているらしい。何を言ってやがるのだと憤激しました。
アルフレッド・ノーベルは自身が発明したダイナマイトが戦争に利用され、「死の商人」とののしられました。だからこそ、巨万の富を人類の発展に役立てたいと願ったのです。まさに記念講演の場こそ、反戦を訴えるにふさわしいではないですか。総理大臣に批判されたとしても、一言一句内容を書き換えるつもりはありませんでした。
1945年3月12日夜の名古屋空襲です。わずかに5歳。それでも、戦争の唯一の記憶として残っています。屋根瓦を突き破って、焼夷(しょうい)弾がコロコロと目の前に転がり落ちてきたのです。しかし、幸運にも不発弾だった。両親の驚愕(きょうがく)と安堵(あんど)はいかほどのものだったか。リヤカーに家財道具と共に載せられ、名古屋の街を逃げ惑いました。火災でオレンジ色に染まった空の色はあせることなく、心に刻み込まれています。
おやじは電気技師になりたかったそうですが、学がなかった。尋常小学校出で、sin(サイン)、cos(コサイン)が分からなかった。それでも、大阪の家具工場にでっち奉公し、名古屋に小さな家具工場を設立するまで頑張りました。ところが、太平洋戦争の開戦と共に軍に工作機械を供出させられてしまった。軍需生産に必要だからです。代わりに航空機工場に徴用され、ベニヤ板をにかわでつないだ燃料タンクを造らされた。生産効率は1週間に1個ほど。アメリカならばジュラルミンを機械的に加工し、あっという間に組み上げてしまうでしょう。「これは負けるな」。そのように感じたと言います。
「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」と、ルイ・パスツール(フランスの生化学・細菌学者)は言いました。日本には理論物理学の大先輩である武谷三男先生のように反ファシズムを標榜(ひょうぼう)し、特高(特別高等警察)に検挙された信念の人もいました。朝永(ともなが)振一郎先生(1965年にノーベル物理学賞)の電波兵器に関する戦時中の論文を読むと、どうも核心部分で巧妙に手抜きをしている。無言の抵抗をしている。科学者の知恵と言えるでしょう。
しかし、そうした行動を戦時に見習うことは非常に難しい。国家は巧みに国民すべてを取り込み、精神動員します。個人は弱いものです。せいぜい、心の中でのサボタージュぐらいが関の山となる。「非国民」「刑務所にぶち込むぞ」と脅かされて、恐れを抱かずにすむ人はいないでしょう。そして、戦争に協力させられる。戦場の兵士だけが戦争をするのではありません。手塩にかけた工場を取り上げられたおやじは被害者ではありますが、兵器生産に従事することで加害者にもさせられたのです。戦争が始まってしまえば、誰もが戦争と無関係ではいられなくなるのです。
「勉強だけでなく、社会的な問題も考えられるようにならないと、一人前の科学者ではない」。名古屋大学での師匠である坂田昌一先生の持論です。先生は「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」をした日本学術会議(1949年創立)にも参加しました。「物理の問題が解けるなら、世界平和に向けた難題も解ける」「科学者には現象の背後に潜む本質を見抜く英知がなければならない」「科学者である前に人間たれ」。いずれも先生の言葉です。
学生時代から、反戦・平和運動に取り組んできました。60年安保闘争では署名集めをし、米原子力潜水艦の国内初入港(長崎県佐世保市、1964年11月)では抗議行動に加わりました。京大に移った70年代には関西電力の原子力発電所計画(旧京都府久美浜町)に反対した。今年11月には被爆70年となる長崎市で、「パグウォッシュ会議」(核兵器と戦争の廃絶を目指す国際組織、1995年にノーベル平和賞受賞)の第61回世界大会を開催します。もっとも、専門の科学者らが集う会議は「貴族的な雰囲気」が性に合っているとは言えなくて。久美浜では町民に原子力の仕組みを話したりしたのですが、そうした地に着いた活動が好きなんです。
自分の子供や孫の将来を考え、これでいいのだろうかと。単純ですが、その疑問が大切だと思います。次世代にどのような日本を残すのか。あの戦争は終わったが、おやじの工作機械は返ってきませんでした。それでも、食っていかなくてはならない。おやじは結局、畑違いの砂糖の販売業に就き、家族の生活を支えてくれました。恨み節は聞きませんでした。
戦争のできる国になってからでは、戦争が始まってしまってからでは遅いのです。そのためには憲法9条を守らなければならない。どのように解釈しようと、戦争を禁止している。平和憲法の根幹です。憲法9条にノーベル平和賞が贈られる日をぜひ見てみたいものです。その記念講演で、日本の首相がどのような演説をするのか。ぜひ聞いてみたいものです。
職業人としての面、生活人としての面。そうした二つの顔を人間は持たなければならないと思います。何らかの形で、社会との接点を常に持たなければならない。二足のわらじを履けなきゃ、男じゃねえ−−。それが自分の心意気です。社会運動は1かゼロかではありません。どんな小さな声でも、集まれば大きな声になるのです。一緒にデモに加わりませんか。勉強会に来ませんか。議論をしませんか。待っていますよ。
ますかわ・としひで
1940年、愛知県生まれ。名古屋大理学部卒。現在は名古屋大素粒子宇宙起源研究機構長、京大名誉教授、京都産業大学益川塾塾頭などを務める。「九条科学者の会」呼びかけ人。近著に「科学者は戦争で何をしたか」(集英社新書)。
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