2016年1月11日月曜日

(社説)「偏り」攻撃 批判封じは間違いだ

朝日新聞 2016年1月10日
http://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S12152385.html?rm=150

 「偏っている」

 この言葉が、現政権と異なる考えや批判的な意見を強く牽制(けんせい)する道具になっている。

 公共施設や学校で、「平和」や「民主主義」といった戦後の日本社会で共有されてきたはずの価値観の表明まで、「政治的に偏っていると受け取られかねない」と抑制された例もある。

 こうした風潮がはびこるのは非常に危険だ。

 問題点を示し、議論するのではなく、「偏っている」と指弾して相手を黙らせようとするのは、一種の抑圧だ。多様な議論と向き合うのが厄介だからと、反対意見が出そうな表現を公共空間から遠ざけてしまうのも、誤りに手を貸す行為である。

 「偏り」を指摘する圧力は、テレビ報道に対して特に高くなっている。

 安倍首相は一昨年、自分の経済政策に疑問を呈する「街の声」に、「選んでいる」と不快感を示した。自民党は総選挙報道の番組内容にまで踏み込んで、「公平中立」を求める文書を放送各局に出した。

 「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」と名乗る団体は昨秋、産経・読売2紙に全面広告を出した。安保法制に反対する報道番組アンカーの発言が「政治的公平」などを定めた放送法4条に反するとし、「公平性はその局の番組全体を見て判断する」という従来の総務大臣見解は不適切だと主張する内容だった。

 この会から質問状を受けた高市早苗総務相は、「政治的公平性」についての総務省の考え方を、省内に設けた有識者による「放送を巡る諸課題に関する検討会」で議論する可能性もあると回答した。

 放送法4条は放送局が自らを律する倫理規範と考えられてきた。だが、高市氏はこの解釈は間違いで、行政指導の根拠になるとしている。4条の「政治的公平性」をどうとらえるかは、放送の自律の根幹に関わる。議論は特に慎重であるべきだ。

 公平なテレビ報道とは何だろう。狭い意味では、特定政党への支持や反対のための放送ではないということだ。ただし権力監視は報道機関の使命である。政権批判を野党への支持だと決めつけるのは適切ではない。

 広くとらえれば、作り手と考え方の違う人も納得できる番組を目指すことだろう。ある事柄を様々な視点から見つめ、作り手の視線も相対化する努力を続けることで、少しずつ実現に近づく。注意深さと粘り強さが必要な道筋だ。それを「偏っている」の一言で壊そうとする乱暴さを許してはならない。

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