2016年2月6日土曜日

160202毎日新聞:本当に必要? 「緊急事態条項」

本当に必要? 「緊急事態条項」

毎日新聞 

うずたかく積み上げられたがれきの上に立つ自衛隊員。憲法に緊急事態条項を新設すれば、救助活動などは円滑に進むというのか=岩手県宮古市で2011年4月3日、大西岳彦撮影
うずたかく積み上げられたがれきの上に立つ自衛隊員。憲法に緊急事態条項を新設すれば、救助活動などは円滑に進むというのか=岩手県宮古市で2011年4月3日、大西岳彦撮影

 安倍晋三首相は最近、「挑戦」との言葉を多用する。その胸中をそんたくすれば、最も挑戦したいのは憲法改正だろう。そして今、永田町では「緊急事態条項」を新設する改憲論が浮上している。戦争や大災害などが起きた場合、首相に権限を集中させるこの条項は、基本的人権を過度に侵害する危険性もある。本当に必要なのか。【江畑佳明】

災害も攻撃も「既存法で対応可能」

 安倍首相の発言をたどってみると、昨年より改憲に前向きな姿勢を感じ取れる。例えば先月19日の参院予算委員会での答弁では緊急事態条項の必要性に踏み込んだ。「大規模な災害が発生したような緊急時において国民の安全を守るため、国家そして国民自らがどのような役割を果たしていくべきかを憲法にどのように位置付けるかは極めて重く、大切な課題と考えている」
 確かに、沿岸部に壊滅的な被害をもたらした東日本大震災の記憶は今もなお鮮明だし、首都直下や南海トラフなどの大地震も高い確率で発生すると指摘されている。世界に目を向ければ、収束しないテロや北朝鮮のミサイル問題などがあり、緊急事態条項は必要−−と納得しそうだ。
 この条項を盛り込んだ自民党の憲法改正草案を確認しよう。条項の概略は、武力攻撃や大災害などが起きた場合、首相が閣議で「緊急事態」を宣言すると▽法律と同じ効力を持つ政令の制定が可能になる▽国民には国や公共機関の指示に従う義務が生じる−−というものだ。
 だが「憲法に緊急事態条項を入れる必要性は全くありません」と断言するのは、災害の法律に詳しい弁護士の小口幸人(おぐちゆきひと)さんだ。小口さんは2010年春、岩手県宮古市へ赴任。震災後、市職員らに法律の助言をするなかで、災害対策基本法などの法律が効果的に運用されていないと痛感した。その例が、津波で破壊された家屋の所有者が、行方不明者の捜索を拒んだ時の対応だった。悩む市職員への助言は「災害対策基本法では、市長の判断で建物の一時使用や収用、除去までできると定めてあります。必要なら、当然立ち入りもできます。立ち入り検査に関する条文もあります」。
 また同法は政府が強い権限で災害対応に臨めるよう、首相による「災害緊急事態の布告」を定めている。国会閉会中でも緊急の必要がある場合、政令を出し物価を抑えたり、債務支払い延期を決めたりすることが可能。表を見てほしい。一例だが、緊急事態に対応する法律に致命的な不備があるとはいえないだろう。
 小口さんは切実な表情でこう訴える。「憲法に緊急事態条項があったら大震災で起きた数々の悲劇を食い止められたのかといえば、そうではない。今の法律を十分に使いこなせなかったのが問題。被害を最小限に抑えるのは、法整備やその周知、訓練などを含めた事前の準備。大震災を改憲のダシにしないでほしい」
 1人の弁護士の意見にとどまらない。岩手、宮城、福島、新潟、兵庫といった大震災を経験した自治体を含む計17の弁護士会は、緊急事態条項の新設に反対する声明を出している。被災地は緊急事態条項を求めてはいない。
 テロや武力攻撃を理由に条項の設置を求める意見には、有事法制に詳しい早稲田大の水島朝穂教授(憲法学)が反論する。「既に警察法や自衛隊法などに過剰ともいえる仕組みが存在し、対応は可能。例外的権限を憲法に導入すれば、誤用、乱用、悪用の危険が増してくる」

戦前に経験「行政フリーハンド化」

 緊急事態条項がないのは憲法の欠陥だ、という意見も改憲派からはよく聞かれる。だが、憲法に詳しい弁護士の伊藤真さんは「先人の知恵の産物であり欠陥ではありません」と切り出し、憲法の制定過程を交えて解説する。
 連合国軍総司令部(GHQ)と日本側が緊急事態条項を巡って議論した際、GHQは「憲法に明文を置かなくても、内閣が超憲法的に対応すればよい」という趣旨の主張をしたが、日本側は「緊急事態条項のあった明治憲法以上の弊害が起きうる」と反論。激論の末、緊急時に衆院議員が不在でも参議院で緊急集会の開催が可能と憲法54条2項に明記された。参院の改選は定数の半分なので、国会議員がゼロになる事態は起きない。「緊急時は参院が立法府として対応できる」と伊藤さん。改憲派は「議員の任期を特例で延長できるよう定めておくべきだ」とも主張するが、その必要はない。
 「明治憲法での弊害」というのは、議会にかけずに発する緊急勅令などが発令された後に起きた不幸な事件を指す。関東大震災(1923年)では政府が戒厳を布告。軍や警察などによる無政府主義者などへの弾圧につながった。日本には緊急事態条項がもたらした苦い経験がある。
 これが念頭にあったのだろうか。現憲法の制定に尽力した金森徳次郎憲法担当相は46年7月、帝国議会衆院憲法改正案委員会で次のように語った。「緊急勅令及び財政上の緊急処分は行政当局者にとりましては実に調法なものであります。しかしながら(略)国民の意思をある期間有力に無視しうる制度である(略)。だから便利を尊ぶかあるいは民主政治の根本の原則を尊重するか、こういう分かれ目になるのであります」
 伊藤さんは力説する。「当時の政治家は緊急事態条項が乱用される危険性を認識し、明治憲法下での人権侵害を反省していました。たとえ一時でも、為政者をフリーハンドにしてはいけません」。先人の反省は極めて重い。

先進国に例ない「長期の人権制限」案

 安倍首相は「多数の国が緊急事態条項を採用している」とも言う。だが、前出の水島さんは「『他国にあるから日本も』というのは稚拙な議論。しかも各国の緊急事態条項は、権力者が暴走しないよう工夫されている」と指摘する。
 例えばドイツ。68年に緊急事態条項が憲法に入れられたが、政府の判断だけでは発動できず、国会(危急の際は48人の非常議会)の決定が必要。憲法裁判所の活動は妨げられない。水島さんは「それに比べて」と、自民党の憲法改正草案に話を移した。「緊急事態宣言の国会承認は事後でも構わないなど政府の暴走にブレーキをかける仕組みが弱い。宣言が100日を超える場合は国会の承認が必要とあるが、一度にそんな長期間、特別の人権制限を続ける規定は、民主国家では聞いたことがありません」
 緊急事態条項に「NO」を突き付けた上で、語気を強める。「こんな現実味のない論議よりも、国民生活を安定させる施策に尽力すべきだ」。国会議員は本業を怠っているという批判だ。
 自民幹部からは「緊急事態条項なら国民に受け入れられやすい」という「お試し改憲論」が聞こえてくる。繰り返すが、緊急事態条項は一時的にせよ、憲法で定める三権分立を停止して人権を制限しうるのだ。こんな「お試し改憲」が許されるのだろうか。

 ◆緊急事態に対応する法律の例

災害対策基本法 

<首相の権限>
・災害緊急事態を布告できる
・内閣は物価の抑制や債務支払い延期などを政令で制定できる
・政令を制定したときは、直ちに国会の臨時会を召集するか、参院の緊急集会を求める
<市町村長の権限>
・居住者へ避難のための立ち退きを指示することが可能
・他人の土地の一時使用が可能

災害救助法

<都道府県知事の権限>
・医療、土木建築工事、輸送関係者を救助の業務に従事させることが可能
・病院やホテルなどの施設を救助のために管理できる
・現場にいる者を救助業務に協力させることが可能

大規模地震対策特別措置法

<首相の権限>
・地方公共団体の長や指定公共機関(日本赤十字、NHKなど)へ必要な指示が可能

原子力災害対策特別措置法

<首相の権限>
・原子力緊急事態宣言の発令をする
・都道府県知事、市町村長に対し、避難のための立ち退きなどの指示・勧告をする

自衛隊法

・首相は緊急事態に際し、自衛隊の出動を命じることが可能

警察法

・首相は緊急事態に際し、一時的に警察を統制し、警察庁長官を直接に指揮監督する

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