2016年9月25日日曜日

もんじゅ「廃炉」どう考える


もんじゅ「廃炉」どう考える

日本原子力研究開発機構の高速増殖原型炉「もんじゅ」=福井県敦賀市で2016年9月15日、本社ヘリから梅田麻衣子撮影
高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の廃炉が年内に決まる見通しとなった。ウランとプルトニウムを再利用する核燃料サイクル政策の要として1兆 円が投じられながらも、ほとんど成果は上げられなかった。一方で政府は核燃料サイクル政策を堅持する方針を示す。もんじゅ「廃炉」という大きな転換期を迎 えるなか、国の原子力政策をどう考えるべきなのか。

決断、欧米より20年遅れ 吉岡斉・九州大教授

吉岡斉氏
1995年のナトリウム漏れ事故を受け、原子力委員会に97年に設置された高速増殖炉懇談会の委員を務めた。当時、米国は核不拡散や経済性の観点から研 究開発を中止していた。ドイツも冷戦終了後の東西統一による財政難と、プルトニウムを保有するという「潜在的核兵器」の必要性がなくなったことなどから原 型炉の建設を中止し、高速増殖炉開発は世界的に行き詰まっていた。日本でもこれまで何度も見直す機会があったはずだが、振り返るとこの懇談会が最後の機会 だった。それを生かせず、今まで延びてしまったことが残念だ。
 懇談会で私は「もんじゅを博物館にして技術保存し、技術者は学芸員として再雇用してはどうか」と提案した。これが現実的な策ではないかと考えた。しか し、こうした意見は取り入れられることはなかった。もんじゅの次の段階となる実証炉以降の開発は白紙に戻るという成果こそあったが、もんじゅは廃炉にはな らなかった。その後、廃炉を含めた在り方が検討されることはなく、巨額の費用が投入されてきた。日本で他国のように研究開発が見直されなかったのは、もん じゅを管理・運営する動力炉・核燃料開発事業団(動燃、現日本原子力研究開発機構)を所管する文部科学省が、最大の抵抗勢力になったためだ。
 使った以上の燃料を生み出すという高速増殖炉は取り扱いが難しく、もんじゅは運転実績がほとんどないまま当初言われた「夢」や「未来」とは無縁だという ことは多くの人が分かっていたはずだ。これまで数回もんじゅを訪れたが、現場の責任者から「士気を維持するのに苦労している」という話を聞いたことがあ る。2012年に明らかになった1万件もの機器点検漏れなどは、やる気のなさの表れだろう。現場は延々と敗戦処理を続けていたといえるかもしれない。昨年 11月に原子力規制委員会が運営主体変更を文科省に勧告した後、電力会社やメーカーが新組織への協力に難色を示したのは、将来性に疑問を持っていたから だ。
 60年代半ば、プルトニウムを米国から入手できるという話があって、それまで無理だと思われていた高速増殖炉への道が開け、国策として研究開発が始まっ た。しかし、ナトリウム漏れ事故以降、もんじゅは国の原子力政策全体の足を引っ張ってきた。政府は、このままでは身動きが取れないと考えたのだろう。
 廃炉にするということは、もんじゅをもはや守っているような状況ではなく、切り離さないと原子力政策が前に進めないという判断が働いたと考えられる。
 高速増殖炉の推進派にとっては、もんじゅを維持することが、ほとんど唯一といえる希望だった。「形さえ残っていれば、いずれ復活する可能性はある」という心のよりどころだった。廃炉は事実上、その道を断ち、政策の大きな節目となる。
 欧米より20〜30年遅れだ。地元の理解を得るのは難しいだろうが、国民の利益を考え、正式廃炉を決断してほしい。【聞き手・飯田和樹】

核燃サイクルこそ見直しを 鈴木達治郎・長崎大核兵器廃絶研究センター長

鈴木達治郎氏
政府はもんじゅの廃炉を今後検討する一方、原発から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)を減らす「高速炉」の研究を進める方針を打ち出した。しかし現 時点では、高速炉は「絵に描いた餅」に過ぎない。基礎研究を進めることを否定はしないが、遠い夢に人や金を投入するのではなく、今そこにある課題に向き合 うべきだ。
 政府は、核のごみの放射線量が天然ウランのレベルに下がるまで、今の再処理技術なら8000年かかるのに対し、高速炉で処理すれば理論上「300年」に 短くなるとの試算を発表し、官民による高速炉開発会議の設置を決めた。政府としては、高速炉を「核のごみの焼却炉」とうたえば国民が受け入れやすいとの思 惑があるのだろうが、今の科学技術で実証されておらず「誇大広告」でしかない。
 政府の増殖炉政策を検証する必要もある。政府はこれまで「もんじゅがなければ高速炉開発は進まない」と断言してきたが、今はもんじゅ廃炉の流れでも、従来通りの高速炉路線を掲げており、過去の主張はうそだったことになる。
 一方、政府は使用済み核燃料を全て再処理してウランとプルトニウムを取り出し、資源として利用する核燃料サイクルは堅持する方針だ。しかし今後、ウラン とプルトニウムの混合酸化物(MOX)燃料を使うプルサーマル発電が進めば、使用済みMOX燃料が発生する。再処理が難しい使用済みMOXは、高速炉の実 用化が進まなければ直接地面に埋めるなどの処分方法しかなく、政府の「全量再処理路線」は破綻し、サイクルの行き詰まりは一層鮮明になる。
 サイクルは余剰プルトニウムの問題も抱える。プルサーマルなどによるプルトニウム利用は進まず、日本は47・9トン(昨年末時点)を保有する。核兵器保 有国を除けば世界的にも突出した量で、プルトニウムの使い道である高速炉がなければ「核兵器に転用するのではないか」との安全保障上の疑念を招く。政府は 青森県の使用済み核燃料再処理工場を今後稼働させる方針だが、そうなれば保有量はもっと増える。サイクルを見直さなければ、日本はプルトニウムを狙うテロ の脅威も一層抱える。
 今回の政策決定過程にも疑問がある。「もんじゅの廃炉方針」や「サイクルの堅持」は、誰がいつ、どう決めたのかは不明で透明性に欠けている。発表のタイ ミングは臨時国会(26日召集)直前で、国会のチェック機能も働いていない。政府の高速炉開発会議も、議論の透明性が確保されるのか。高速炉や核燃料サイ クルを推進するなら、独立した第三者機関による徹底した検証が必要だ。
 高速炉の開発は今後30年以上かかる息の長い取り組みになる。その一方、余剰プルトニウムや核のごみの処分といった問題のほか、東京電力福島第1原発の 廃炉処理や除染廃棄物の処分といった課題は目の前にある。旧来の高速炉や核燃料サイクルに固執するようでは、福島事故で失われた原子力政策への国民の信頼 は回復されないだろう。それよりも、原子力技術が生み出した負の遺産への後始末に全力を注ぎ込むべきではないか。【聞き手・中西拓司】

自主技術を無駄にするな 菊池三郎・公益財団法人原子力バックエンド推進センター理事長

菊池三郎氏
資源のない日本にとって、核燃料サイクルは率先して手に入れないといけない技術だ。通常の原発である軽水炉で燃料に使えるウランは1%以下しかない。 99%以上を占める燃えないウランをプルトニウムに変えて増殖し、繰り返し使うことで、海外に依存しない「準国産エネルギー」が得られる。高速増殖原型炉 「もんじゅ」はその中核となる日本の自主技術だ。無駄にすべきではない。
 高速増殖炉開発は戦後間もなく始まり、日本の産学官が連携して進めてきた。実験炉の常陽は1977年に稼働し、原型炉のもんじゅも少ないながら発電実績 があり、日本は開発のトップグループにいる。実用化にはこの先、経済性を確かめる実証炉、150万キロワットクラスの大型の実用炉を目指す必要がある。ロ シアはすでに実証炉を稼働して発電を始めた。中国やインドも追随し各国がしのぎを削っている。もんじゅを廃炉にすれば日本の技術開発はそれだけ出遅れ、ラ イバル国を喜ばせるだけだ。もんじゅの代わりにフランスで計画中の実証炉「ASTRID(アストリッド)」を利用する計画もあるが、モノを持たずに人や技 術が育つのか。日本もASTRIDに対抗する原子炉を持ってこそ、お互いの技術を伸ばせる。
 安全保障上の観点も重要だ。核兵器に転用できるプルトニウムを平和利用に限ることを条件に、日本は日米原子力協定で米国に核燃料サイクルを認められている。もんじゅが廃炉になればプルトニウムが利用できず、2年後の協定改定に大きな影響を及ぼす懸念がある。
 規制のあり方にも問題がある。新しい保守管理制度が2008年に始まった際、あまり議論をしないままもんじゅに軽水炉と同じ制度を導入したことが、1万 件もの点検漏れを招いた背景にある。もんじゅは一品物の研究開発炉で、ある程度のつまずきは避けられない。そこを理解しないまま原子力規制委員会は、運営 組織交代という一方的な退場勧告をしたように思える。いかに電力やメーカーの協力を得ても、ナトリウムの扱いを知っている人でなければ運転はできない。規 制委は、中枢にいる人のモチベーションを高める指導をすべきではないか。
 もんじゅはナトリウム漏れ事故などトラブルが続き、事故直後のビデオを隠す不祥事もあった。ただその多くは、組織や人の意識を高めれば未然に防げる。当 時運営主体の旧動力炉・核燃料開発事業団に「運転できなくても経営に影響しない」という甘さがあった。これほどの停滞を自ら招いたことは残念だが、信頼は 必ず回復できる。ナトリウム漏れ事故を受けて私が建設所長に就任した時は、地元の福井県ですらほとんどの市町村がもんじゅに反対だった。隠蔽(いんぺい) 体質を徹底した情報公開で改め、長い時間をかけて理解を得る活動を続け、今では地元自治体のほとんどがもんじゅに賛成だ。
 もんじゅを廃炉にするのは、軽水炉の再稼働を進めるための「いけにえ」としか見えない。高速増殖炉は実用化に長い時間がかかるかもしれないが、百年の大計で臨むべきだ。【聞き手・酒造唯】

運転実績、22年で250日

高速増殖原型炉「もんじゅ」は、原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランを燃料とし、使った以上のプルトニウムを生み出す「夢の原子 炉」と言われた。1994年4月に臨界を達成したが、95年12月にはナトリウム漏れ事故を起こすなどで22年間の運転実績は250日。2012年に約1 万件の機器点検漏れが発覚し、原子力規制委員会が運営主体(日本原子力研究開発機構)の変更を求めていた。政府は年内に廃炉を正式決定する。

 ■人物略歴

よしおか・ひとし

1953年生まれ。東京大大学院理学系研究科博士課程単位取得退学。専門は科学技術史。東京電力福島第1原発事故後、政府の原発事故調査・検証委員会の委員を務めた。

 ■人物略歴

すずき・たつじろう

1951年生まれ。東京大原子力工学科卒、米マサチューセッツ工科大修士修了。専門は原子力政策。2010年1月〜14年3月、内閣府の原子力委員会委員長代理を務めた。

 ■人物略歴

きくち・さぶろう

1941年生まれ。京都大工学部原子核工学科卒。旧動燃でもんじゅ建設所長や理事を歴任。フランスからのプルトニウム輸送を指揮しミスタープルトニウムと呼ばれる。2005年から現職。

160825 ナチスから迫害された障害者たち

シリーズ戦後70年 障害者と戦争 
  1. ナチスから迫害された障害者たち (1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか

この放送回の番組まるごとテキストを掲載しています





  • 藤井 克徳さん(日本障害者協議会代表)
    シリーズ戦後70年 障害者と戦争  ナチスから迫害された障害者たち (1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか の番組概要を見る

    戦後70年 障害者の虐殺の歴史と向き合う藤井さん

    (VTR)
    第2次世界大戦の終結から70年。
    ドイツでは道行く人たちに戦争による過ちに向き合ってもらおうとする展示が町のあちらこちらで行われています。
    「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる」。
    歴史を風化させないよう、国を挙げて取り組んできました。
    この節目の年にドイツを訪れたのは、長年日本の障害者施策に提言を続けてきた藤井克徳さんです。
    視覚に障害があります。
    藤井:それで、T4計画の記念碑の広場は?
    同行者:ずっと左手に。
    藤井さんは今年 どうしても向き合いたい歴史がありました。
    それはつらい過去をあえてさらけ出してきたドイツでも近年まであまり語られてこなかった事です。
    戦時中、精神障害者や知的障害者などが大量虐殺されていました。
    藤井:働く能力がなくて、治療の効果もないと見られた人はガス室で殺害されました。
    社会での反応は書いていないですか?
    誰もが知らないというのはありえない。
    だけどオープンに反対した人は少なかったんですね。
    生きる価値がないとされ殺された犠牲者は20万人以上。
    殺害には医師たちが自主的に関わっていました。
    そしてこれが後にユダヤ人の大虐殺につながった事も分かってきました。
    2010年、ドイツの精神医学会は障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪しました。
    シュナイダー:私たち精神科医は、ナチの時代に人間を侮辱し、自分たちに信頼を寄せていた患者を裏切り、自ら患者を殺しました。
    あまりにも遅すぎますが、全ての犠牲者にドイツの連盟と精神科医が追わせた不正と苦痛に対してお詫び申し上げます。
    民衆がヒトラー政権に酔いしれる裏で進められた、障害者たちの大量虐殺。
    誰も止めようとはしなかったのでしょうか。
    「シリーズ障害者と戦争。ナチスに迫害された障害者たち」。
    1回目は20万人の大虐殺がなぜ起きたのか、その真実に迫ります。

    父を殺されたバーデルさん

    南ドイツにある、ギーンゲン。
    人口およそ2万人の小さな町です。
    藤井克徳さんがまず訪ねたのは、障害者だった父を殺されたという遺族です。
    バーデル:こんにちは、よくいらっしゃいました。
    ヘルムート・バーデルさん(81歳)。
    父親は脳神経系の難病を患っていました。
    子どもの頃に住んでいた家が、今もそのままの形で残っています。
    バーデル:シンプルな家ですが、1階には大きな部屋があります。 
    そこは父の作業場でした。 
    父は靴の修理職人だったんです。
    藤井:お父さんとこの辺で遊んだんですね?きっと。
    バーデル:はい。父の作業場に私専用の小さなテーブルがありました。
    私はいつもそこに座って、ハンマーでくぎを打つまねをしていたんですよ。
    1901年に生まれた父、マーティン・バーデルさん。
    厳しい修業を経て、23歳で靴職人となりました。
    バーデル:これは父が修理に使っていた道具です。
    仕事に打ち込み始めたやさき、手足の震えや神経のまひなどパーキンソン病の症状が出始めます。
    バーデル:この写真を見ると、父が既にパーキンソン病であった事が分かります。 
    体が前に傾いていて、片腕を背中の後ろに隠しています。 
    表情もよくありません。
    症状が悪化したのは、30代後半。
    1938年。家から遠く離れた大きな州立病院に入院します。
    それは医師に半ば強制された入院だったといいます。
    有効な治療方法が見つからない中入院は長引きました。
    マーティンさんは家族に度々手紙を書き、寂しい気持ちをつづっていました。
    (1938年12月の手紙)
    「親愛なる皆様、お手紙が届き、重い気持ちで読みました。私は悲しみに暮れています。いつ帰る事ができるか分からないからです」
    (1939年3月)
    「いつまでここにいなければならないのでしょう」。
    バーデル:父は常に治療が終われば家に帰って、自分の仕事に戻れると思っていました。
    この手紙からおよそ半年後。
    ドイツ軍はポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まります。
    このころ届いた手紙には働けない悔しさがにじんでいました。
    「男たちが皆戦争に行き、やるべき事が山ほどあるのに私はここでじっとしているしかできない。私が一番心配なのはあなたたちを養えない事。知り合いに何か仕事がないか聞いてみてもらえませんか」
    しかし、この手紙には医師からの注釈が加えられていました。
    「マーティンさんは退院したら働けると思い込んでいるようだが、うまくいく訳がない」といった内容でした。

    動き出した障害者殺害計画「T4」

    このころヒトラーはドイツ民族を最も優れた人種と位置づける政策を強力に進めていました。
    そこで迫害されたのが、ドイツ民族の血を汚すとされたユダヤ人です。
    同時に障害者や遺伝性の病気の人も民族の血を汚し、金ばかりかかる価値のない命とし、その考えを広めていきました。
    映画台詞:「健康な国民同胞を健全にする資金が、白痴者を扶養するために使われている。施設にはそのような者がうようよいる。この遺伝性疾患のあるきょうだいの世話にこれまで154000マルクかかった。どれほどの数の健康な人々がこの費用で家を買えるだろうか!」
    障害者の歴史に詳しく、自らも視覚障害のあるヘルベルト・デムメルさんです。
    デムメル:障害者は生きる権利がないというのが、ナチスの考え方でした。
    個人は常に社会にとって価値があるかないかで判断されていました。
    つまり共同体がまず大事で、個人は完全にその下だったのです。
    ドイツ経済を立て直し、国民の熱狂的な支持を集めていたヒトラー。
    その人気の裏で障害者にかかる費用を削り、殺害計画を進めていきました。
    これはヒトラーが側近と自分の主治医に宛てた秘密文書です。
    「病気の状態が深刻で、治癒できない患者を安楽死させる権限を与える」。
    実行にあたり、患者を苦悩から解放するという名目で全国から立場ある精神科医や病院長などが集められます。
    この極秘計画は後に実行本部が置かれた場所から、T4作戦という暗号名が付けられました。
    まず全国の病院や施設に患者一人一人についての調査票が送られました。
    病名や症状を聞くほか「退院の見込みはあるか」。「労働者として使えるか」などの質問もありました。
    この結果を基に本部の医師たちが生きる価値があるかを判断。
    殺してもいいと思った場合は判定欄に+マークを書き込みます。
    統合失調症だったこの女性の場合、4人全員が殺してよいとしています。
    殺害場所には人目につきにくい施設が選ばれました。
    その一つが南ドイツにある、グラーフェネック城です。
    更に最も効果的な殺害方法を検討。
    一酸化炭素ガスが有効とされると、城近くの空き地にガス室が造られました。
    このころ、何も知らないマーティンさんは家族とのやり取りを続けていました。
    「戦争が終わるまで待ちなさいという慰めに同意できません。それにはあと3年、いや5年はかかるかもしれません。どうしても40歳の誕生日までに帰りたい」
    バーデル:しかし父は40歳にはなれませんでした。
    この3か月後、母は父に葉書を出します。
    しかし、あて先不明で返ってきてしまいます。
    そしてその直後、入院していたはずの州立病院ではなく、グラーフェネックから父の死亡通知が届きました。
    死因は脳卒中と書かれていました。
    バーデル:あの日の事はよ~く覚えています。 
    急に母の大きな叫び声が聞こえました。
    すぐに駆けつけると、「お父さんが亡くなった」と知らされたのです。
    母は「夫が突然亡くなるのはおかしい」と市長に言いに行きました。
    しかし市長は「バーデルさん、そんな事を言わないで下さい。あなたの身が危険にさらされますよ」と言ったのです。
    それが父の最期でした。
    マーティンさんの死亡通知が届く5か月前から、グラーフェネックではガス室を使っての殺害が始まっていました。
    鑑定により生きる価値がないとされた人たちは、各地の病院や施設から灰色のバスに乗せられて運ばれました。
    バスの窓は塗り潰されたり、カーテンが掛けられたりしていました。
    マーティンさんは運ばれたその日のうちに殺されたと考えられています。
    1940年6月14日。40歳の誕生日まであと5か月でした。
    殺害施設ではガス栓を開けた医師のほか、看護師や遺体を焼却する人など多い時には100人ほどが関わっていました。
    雇われる前に仕事の説明を受けていましたが、特に反対する人はいなかったといいます。
    藤井:ああしてお手紙を読ませてもらってね。
    どうしてあれが生きる価値がないかということがとても考えられない。
    ああいう死に追いやる本当の理由がね、私はますます分かりづらくなったというのが今日の率直な感想ですかね。

    止めようとする人はいなかったのか? 声をあげなかった住民

    誰も止めようとする人はいなかったのか。
    藤井さんが向かったのはドイツ中西部の町、ハダマーです。
    交通の要所として古くから栄えていた、ハダマー。
    グラーフェネックでの殺害開始から1年後、町の中心部の高台にあった精神病院の地下にまた新たなガス室が造られました。
    町の人たちは気付いていなかったのか。
    当時の様子を覚えている人がいると知り、会いに行きました。
    ハダマーで生まれ育った、ハインツ・ドゥフシエーラさん82 歳。
    殺害が行われていた頃は7~8歳でした。
    精神病院がよく見えたという橋に連れていってくれました。
    ドゥフシエーラ:あちらです。 
    昔は木がもっと低くて、施設がよく見えました。 
    いつも煙が見えて、何だろうとうわさしていました。
    とても臭くて嫌な臭いでした。
    ドゥフシエーラさんが強烈に覚えている事があります。
    それは戦争から帰ってきた兵士が言った言葉でした。
    ドゥフシエーラ:戦場で死体を焼いているにおいと同じだと言ったのです。
    それを聞いた大人たちはびっくりしていました。 
    満席のバスがしょっちゅう上がっていくのですが、帰りはいつも空っぽでした。 
    もう施設の中はいっぱいのはずなのに「おかしい」と大人たちが言っていたのを覚えています。
    藤井:住民の良心としてそれを止めようという、そういう住民のまとまった動きっていうのはやはり難しかったんでしょうか。
    ドゥフシエーラ:もう手遅れでした。
    ナチスの監視システムは既に出来上がり、徹底していました。 
    この町の人たちはいつも受け身で、どうせどうする事もできないと思っていました。
    山の上で何かしてはいるけれども、自分たちとは関係ない事だと考えるようになっていったのです。

    暴走し、歯止めがきかなくなった殺害

    各地からバスに乗せられてやって来た障害者たちは、どのような最期を迎えたのか。
    ハダマーの精神病院の地下には今もガス室の跡が残っています。
    藤井さんは、訪ねる事にしました。
    学芸員のレギーネ・ガブリエルさんが、犠牲者が通った道順を案内してくれました。
    バスから降りるとまずは医務室に連れていかれ、医師の診察を受けます。
    ガブリエル:診察といっても実はただの名前の確認です。
    そしてこの1回の診察で医師は死因を決めました。
    そのために死因として60項目の病名リストがありました。
    例えば心臓発作とか肺炎、腸炎、盲腸などです。
    形だけの診察のあと一人、一人、身長と体重が測られ、写真が撮影されました。
    その後、シャワーを浴びると説明され裸にされて、地下に連れていかれます。
    この先がガス室です。
    12平方メートルほどの空間に、一度に50人ずつ押し込まれました。
    ガブリエル:ここにガスの管がつけられていました。
    藤井:これですか?この穴。
    ガブリエル:はい。ガス管がつけられていたねじ穴です。
    藤井:多い時には一日どれぐらいの人を殺害したんでしょうか?
    ガブリエル:120人です。それが毎日です。
    ガスが入れられた時間は、10分。
    その後、遺体は滑りやすく加工された通路を引きずられて焼却炉まで運ばれました。
    1941年8月までに6つの施設で犠牲になった人の数は、7万人を超えていました。
    ここでヒトラーは突然T4計画の中止命令を発表。
    このころからユダヤ人に対する迫害を更に激化させていきます。
    T4の殺害施設で働いていた医師やスタッフはアウシュビッツ強制収容所などでユダヤ人殺害に加担。
    T4で培われたガスを使って効率的に殺すという技術が引き継がれたのです。
    ガブリエル:障害者の安楽死計画はいわばリハーサルだったと言ってもいいでしょう。
    つまりこの行為はどこまで有効か、そして人々に反対されずにどの程度まで人間を機械的に大量殺害できるかを試したのです。
    この事によって大量殺害の歯止めがきかなくなっていったのです。
    終戦後、もう一つの事実が明らかになりました。
    T4作戦中止命令後も障害者の殺害は続いていたのです。
    「野生化した殺害」といわれるこの行為は、ハダマーだけでなく各地で行われていました。
    最終的な犠牲者は全国で20万人以上になっていました。
    藤井:仮に障害者が全てもし消え去った時にどうかっていうと、今度は次の社会的に弱い人、それは高齢者であったり、または病気の人、女性の病気の人、子どもの病気の人、絶えず弱者っていう人たちを探し当ててくるという、そういう弱者探しの連鎖っていう事…。
    これが優生学思想の怖いとこで、どんな戦争にもどんな悪行にも必ず最初があるわけですね。
    その段階でやはり気付く力、ここがやはり一つ問われてくる。

    価値ない人などいない―人間の尊厳―

    生きる価値のない人間などなくどんな人間にも尊厳がある。
    ハダマーでその事を再確認するもう一つの出会いがありました。
    父の妹にあたる叔母がてんかんのため殺されました。
    父と一緒に写る叔母、ヘルガさんの写真が残っています。
    しかしギーゼラさん、ヘルガさんが殺された事も、更に存在していた事さえ、最近親戚から聞くまで知りませんでした。
    ギーゼラ:叔母が殺された事は私にとって、とても悲しい事です。
    でも私に一番重くのしかかっているのは叔母の死ではなく、家族がずっと彼女の存在を消してきた事なんです。 
    それが今でも私はつらくてしかたないのです。 
    彼らが人間として存在する事がすごく大切です。
    犠牲者たちの遺骨が名もなく、どこかに捨てられるというのは私には耐えられません。
    会った事もない叔母のヘルガさん。
    ギーゼラさんは彼女を思って出した、新聞広告を見せてくれました。
    「ヘルガ・オルトレップ。あなたはナチスのいいなりになった協力者によって殺害された。そして家族によっても黙殺された。私はあなたを忘れない。あなたの姪、ギーゼラより」
    ギーゼラ:私は叔母の人間としての尊厳を彼女のために、取り戻したいのです。
    ハダマーの墓地には被害者たちを追悼する記念碑が建てられています。
    そこにはこう書かれています。
    「人間よ、人間を敬いなさい」年8月25日(火曜)

160905 相模原殺傷事件「差別の反対は無関心、これが一番の曲者で怪物」

相模原殺傷事件「差別の反対は無関心、これが一番の曲者で怪物」――藤井克徳さんに聞く

 2016年09月05日 | 更新 2016年09月06日


保坂展人 世田谷区長。ジャーナリスト。

ASSOCIATED PRESS


深夜の凶行から1カ月あまりが経過しました。神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」を襲い、19人の障害者を殺害、職員を含む27人が重軽傷を負った事件の衝撃は深く広がっています。障害者やその家族、支えてきた人たちの心も傷つき、今年4月に「障害者差別解消法」が施行されたばかりの時点で起きた惨劇に言葉にならない悲しみと恐怖、怒りが、私たちの社会に影を投げかけています。
私は、事件の翌日に『「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」の拡散・連鎖の根を絶つために』(2016年7月27日) を緊急寄稿しました。
相模原市内の障害者施設に入所中の障害者を襲撃した大量殺傷事件は、その犠牲者・被害者から戦後最悪となり、また犯行を事前に予告し「襲撃・殺戮行為」を正当化している点でヘイトクライム(憎悪犯罪)としての特質を持つものと受けとめています。
事件直後から、この事件をめぐる「社会の構造」について発言されている藤井克徳さん(日本障害者協議会会長・きょうされん専務理事)を訪ね、お話を聞きました。事件直後から新聞各紙にもコメントや談話を寄せていた藤井さんですが、じっくりお話をうかがって、あらためて「特異な事件」として片づけることなく、裾野の広い社会的背景を提示していただきました。
他の先進工業国では考えられないことですが、日本には障害者を対象とした入所施設が3095カ所あります。また、精神障害者の社会的入院という問題もあります。こういう国は他にはありません。欧米では「医療中心から生活中心へ」「施設から地域へ」という取り組みが行なわれています。
もちろん相模原事件は許せません。無抵抗の重度障害者を標的に、しかも支援体制の薄い深夜に襲いかかかったのです。そのうえで、この事件には特異な部分と特異さだけでは片づけられない部分があります。特異な部分は今後、司直や心理学、精神医療の専門家が追及していくでしょう。問題は特異だけでは片づけられない部分をどう見るかです。
その点について考えるまえに、いったん事件を普通の目線で見ることが大切です。いくつものおかしさに気づかされます。
まず一つ目は、入所施設というものの問題です。一般の青年層・壮年層が大集団で、しかも期限なしで生活するなどということは、普通はないことです。通常の社会にはあり得ないことが、やまゆり園にはあったのです。
事件の舞台となった津久井やまゆり園には、150名近い利用者が在園していました。やまゆり園は高尾山の麓にあり、いまでこそ住宅地が迫って来ていますが、もともとは何もないところでした。地域から隔離された入所施設という状況があったわけです。
「障害者を狙う大量殺人事件」という衝撃のあまり、この点には気づきませんでした。「150名近い青年・壮年の大集団が暮らす入所施設」という藤井さんの指摘は、私たちの社会の日常の光景を問うています。
二つ目に匿名という問題があります。人の死というのは、その方の固有名詞があって、その方の性別や年齢などがあってはじめて悼む気持ちが生まれ、それによって手の合わせ方も変わって来るはずです。匿名報道は遺族の意向と言われますが、これは「この子はいないことになっている」ことの現れではないでしょうか。この発想自体、優生思想の延長線上にあると言っていいのではないでしょうか。20歳以下ならいざ知らず、20歳を超えた方について、たとえ親の意向とはいえ匿名のままでいいのでしょうか。とても違和感があります。
三つ目に、事件のあった敷地内の体育館で90人の方が事件後もずっと長期に暮らしているということです。同胞が惨殺された同じ敷地内で暮らすなどというのは、普通ないことではないでしょうか。厚労省は、「障害者にとっては慣れた環境のほうがいい」と述べていますが、これは本当に障害者を知っている者の発想ではありません。詭弁です。普通の目線では考えられません。
匿名にしても、事件のあった同じ敷地内で暮らしていることにしても、障害者だから許されるとしたらどうでしょう。「障害者差別」以外のなにものでもありません。まさに死後まで続く差別です。事件そのものも問題ですが、事件後も本質的な問題が連なっています。相模原事件は、こうした事件後のおかしさを含めて全体像をとらえることが大切です。
匿名報道についての違和感は、私も持っていました。ダッカで起きた銃撃事件等多くの犠牲者が出た事件では、報道機関は、被害者の人柄や歩みを紹介し、大切な生命を奪われた後に残された家族の嘆きを伝えています。「死後まで続く差別」という言葉が耳にささります。
また、事件後も長期にわたって敷地内の体育館で多くの方が過ごしているという事実は、多くの方が殺傷された事件現場で寝起きしていることに他ならないとした上で、これは一般的にありえる選択なのか、障害者ゆえの扱いなのかと藤井さんは指摘しています。
一番気になるのは優生思想的な考え方です。容疑者が衆院議長に宛てた手紙にしても、その後の供述にしても、優生思想的な立場にあるように思われます。
私は、昨年、NHKと共同して、ナチス時代にくり広げられたT4作戦に焦点をあてて二度にわたりドイツでの取材を行ないました。1939年に第二次世界大戦が始まってから、20万人以上の障害者が殺されました。1939年9月1日(ポーランド侵攻)から1941年8月24日までで20万人以上です。ヒトラーはT4作戦をわざわざ戦争勃発時の9月1日付で開始していますが、ほんとうに始めたのは1940年1月でした。
フォン・ガーレンというカトリックの司教が1941年7〜8月に命を顧みずT4作戦を批判する説教をし、手書きの文書を8月3〜4日に撒きました。ヒトラーはそれに太刀打ちできず、中止命令を出し、8月24日に計画を中止します。
ヒトラーは、早々にT4作戦を切り上げて、かねてからの目的であったユダヤ人の絶滅作戦に移りたかったのです。なお、T4作戦の犠牲者は1941年8月までで約7万人余で、その後T4作戦は「野生化」の状態に入りました。精神科医の手を離れて、看護師、介護士が勝手にやってしまうようになったのです。毒殺、飢餓殺などがあり、合計で20万人以上が殺されました。中止命令以降のほうが、死者が多いのです。
この1カ月の間、ナチス・ドイツによる「T4作戦」による障害者抹殺の経過を調べるために、集中的に読んでみました。印象深かったのは『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(ヒュー・グレゴリー ギャラファー・長瀬修訳・現代書館・1996年) でした。私は、ヒトラーとナチス・ドイツについて注意をはらってきたつもりでしたが、「T4作戦」は正確に知りませんでした。「ユダヤ人大量虐殺」と同時平行で「精神障害者」「同性愛者」なども殺戮されたという漠然とした認識でした。「大量殺害のためのガス室」も、精神病院で医者の手で始まり、その後の「ユダヤ人大量虐殺」に至ったことを改めて知りました。
T4作戦は忽然と現れたのではありません。それに先立って、劣等な遺伝子を消そうと断種が盛んに行なわれました。ヒトラーが政権を掌握した同じ年の1933年7月14日に断種法、つまり遺伝病子孫予防法が制定されました。この日には国民投票法と政党新設禁止法(一党独裁法)も成立しています。ヒトラーにとって断種法が政治的にいかに重視されていたかがうかがわれます。
断種の強行は1934年後半から35年にかけて活発化し、39年に終わります。合計約40万人もが断種されました。T4作戦の前に断種政策があり、T4作戦のガス室での大量殺害方式がその後のユダヤ人大虐殺につながっていったのです。T4作戦に携わった管理者や現場関係者がアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に異動となった証言はいくつもあります。断種法とT4作戦とユダヤ人虐殺の三つを連続的で段階的と見るべきです。
こうして見ていくと、最初の段階で事態を止められなかったことが、最終的に600万人の死につながったのです。歴史学的にわれわれが言えることは、ナチスドイツが行った断種のような初期段階で、事態をどう見るかが問われるということです。「これくらいは、これくらいは」と許してしまったことが問われます。
今回の事件で、植松容疑者の言動が伝えられたときに、真っ先に連想したのが、このT4作戦でした。ちなみに、報道によれば、植松容疑者の家からはT4作戦に関する文献は見つかっていないそうです。彼は「重い障害者は殺してしまおう」とやまゆり園の職員に話したときに、職員からヒトラーと同じだと言われたらしい。
彼は確信犯かどうかわかりませんが、彼の発想には優生思想とつながっているところがあると思います。植松個人は許せないのですが、問題は現代日本社会はどうなのかということです。かつて石原慎太郎氏は、都知事時代に都立府中療育センターで「ああいう人に人格あるのかね」と発言しました。また、去年の(2015年)11月、茨城県教育委員会の長谷川智恵子委員が、障害児について、「こういう子は出生前になんとかならなかったのか、茨城県の障害者はもっと減らせたのではないか」と述べました。
事件が特異であると片づけてはいけないのはこういう理由からです。こういうことがちょいちょい頭をもたげている。こういうことを許している社会の土壌を見なくてはいけません。
今回の事件が、障害者をとりまく日本社会の日常と「地続き」だということに目をそらしてはならないと感じました。そして、日本社会も今、大きく変容しています。藤井さんは続けます。
今日の社会は格差が大きく、不寛容であり、簡単に言ってしまえば生産性、経済性、効率、速度の価値基準で動いている。格差、差別、虐待、虐殺、戦争......と段階的に見えてきます。こういう日本の社会は市場原理競争原理一辺倒です。そして、その延長線上に、もしくは深部において優生思想的なものが息づいている。そういう社会において、重い障害者は邪魔であり、厄介である。競争原理から言えば当然そういうことになります。
そして、政府の対応の問題があります。政府の検証委員会でいま出ている見解は、措置入院後のフォローと福祉施設の防犯策です。何か政治的パフォーマンスをしなくてはいけないということなのでしょうが、措置入院と防犯に議論が終始しています。
これまで、精神障害者政策はいつも事件とセットで動いてきました。ライシャワー駐日大使が統合失調症患者にナイフで刺された事件(ライシャワー事件)でもそうでしたし、池田小学校事件の後には心身喪失者医療制度がつくられました。
もちろん措置入院も防犯も考えなくてはいけませんが、事件に対する薄っぺらな対症療法ではなく、もっと分厚い障害者政策の構築と結びつけなくてはいけません。相模原事件後の政府の対応は的外れです。いま問われるべきは、精神障害者政策では社会的入院の問題です。今日7万もの人びとが無為な長期の社会的入院をしています。そして、74万1000人の知的障害者のうち約13万人が施設に入っています(2015年11月1日現在)。こういうことを放置していること自体が、政府による優生思想の現れと言われても仕方がありません。
もちろん、こうした政策姿勢は国民にも伝播してしまうように思います。くり返しになりますが、容疑者に備わる優生思想的な言動は絶対に許せませんが、それと同根の社会全体の動きや政策の基本にも目を向けなければなりません。余りに不幸な事件ですが、このことを遅れをとっている日本の障害者政策の転換のきっかけにすることが犠牲者の無念を晴らすことにつながるのではないでしょうか。
ノルウェーでは、アンネシェ・ブレイヴィクが起こした大量虐殺事件について1年かけて国会で審議しました。日本でも、この事件をめぐって国会で集中審議をするべきです。いまの厚労省を中心とした政府の対応は政治的パフォーマンスにすぎないように見えて仕方がありません。
sagamihara
津久井やまゆり園前の献花台
問題を深刻に、社会全体のものとして受けとめるために、「国会の集中審議」は有効です。2000年の「耐震偽装事件」では何度も集中審議を行ないました。ただ、今回、私が目を通している限り、政局を追うのに忙しいメディアは「国会の集中審議」を求める問題提起を語っていません。
夏休みが始まったばかりで起きた事件です。私たちは子どもたちや若い世代にどのように語り伝えていけばいいのでしょうか。
いま、ごく一部とはいえ植松容疑者に共感している人がいます。ヒトラーはT4作戦を実施する前に、全国5000カ所の映画館で、障害者にかかる費用をなくせば一般国民の住宅がこれだけつくれると宣伝しました。人間は状況が厳しくなると、自身の中の座標軸が変質したり、強い論理に無意識のうちに身を委ねることがあります。また自分より劣る者にもっと差をつけて優位であることを感じたくなるのです。マスコミの報道の仕方も気になっています。事件の背景、温床にもっと光をあてるべきで、センセーショナルな情報ばかりを流してはいけないと思います。
第二次世界大戦以降の地道な人権獲得の取り組みの中で、また1981年の国際障害者年以降の国際規模での障害分野の発展の集大成として、障害者権利条約が2006年に誕生しました。どの条項を見てもキラキラと光るはずなのですが、残念ながら磨かなければ光りません。まだ原石の段階です。
日本も磨いている途中です。障害者権利条約が生かされれば、相模原事件のような事件は起こるはずはありません。そして、今年の4月に障害者差別解消法が施行されました。その年にこういう事件が起こったことは、私もそうですが、日本中の障害分野にとって本当に大きなショックです。
社会に向かっては、あらためて、相模原事件を障害のある人のことを正しくとらえる新たなきっかけにしてほしい、そう訴えたいです。障害者権利条約の批准、障害者差別解消法の施行が図られたわけで、これらの力を加速させていくことが問われています。
具体的には、精神障害者に対する入院中心主義や知的障害者に対する施設中心主義の政策にメスを入れること、20歳を超えた障害者の相変わらずの親丸抱えを改めること、圧倒的多くの障害者が相対的貧困線以下に閉じ込められている実態から脱却することなどがあげられます。今回の事件を、これらを好転させるターニングポイントにすべきです。そうでなければ、相模原事件のほんとうの総括になりませんし、19人の死、27人の負傷者に報いることにはなりません。
そのうえで、一般の市民、特に小中学生、高校生に対して訴えたいことがあります。それは、差別の反対は何かと言うことです。普通に考えれば、差別の反対は平等とか公平ということになります。いまの社会を見ていると、そうは言いにくいのです。実は、いまの社会にあっては、差別の反対は無関心なのです。この無関心が一番曲者で、怪物のようなものです。これこそ、教育がもっとも力を入れるべきところです。そのためには、障害のある人に直に接してもらうことが大事だと考えています。
小中学生・高校生に向けて「差別の反対は無関心、これが一番の曲者で怪物」という藤井さんの思いを、子どもたちなら受けとめられるはずです。
また「わかっているつもり」がいかに危ういかということも思い知らされました。藤井さんの指摘する「入所施設生活」「匿名にひそむ差別」「事件後の施設内体育館生活」等お話を聞いて、ドキリとする部分がありました。
実は、2016年4月1日、世田谷区役所中庭から「障害者差別解消法」施行を記念する黄色と東ちづるさんが代表をつとめる「Get in touch!」の呼びかける「世界自閉症啓発デー」を記念する青い風船を、300人の障害当事者や支援者、区職員等で大空にあげました。
こうして、「これから歩みが始まる」と考えてきましたが、今回の事件を「特異な事件」として片づけることなく、足元の日常に残っているバリアに目を向けて解消をはかっていかなければと思います。
藤井克徳さんプロフィール
1957年福井大学付属春山小学校入学、1970年青森県立盲学校高等部専攻科卒業後、都立小平養護学校(肢体不自由,現在の都立小平特別支援学校)勤務.その後,教諭資格取得に伴って1976年より同校教諭。1981年共同作業所全国連絡会(現・きょうされん)事務局長、1982年都立小平養護学校退職、あさやけ第2作業所(精神障害者対象)所長、1994年あさやけ第2作業所退職、きょうされん常務理事、社会福祉法人きょうされん第2リサイクル洗びんセンター(精神障害者通所授産施設)施設長,埼玉大学教育学部非常勤講師(2005年まで)。2005年第2リサイクル洗びんセンター施設長退職。国連ESCAPチャンピオン(障害者の権利擁護推進)賞受賞(2012年)。

2016年9月24日土曜日

160924 毎日新聞社説 もんじゅ廃炉 サイクルの破綻認めよ

もんじゅ廃炉 サイクルの破綻認めよ


毎日新聞 
 日本原子力研究開発機構の高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)について、政府の原子力関係閣僚会議は、廃炉を前提に抜本的に見直すことを決めた。関係自治体と協議の上、年内に最終決定する。
 もんじゅには1兆円を超す国費が投入されたが、相次ぐ事故や不祥事で、この20年間余り、ほとんど稼働していない。再稼働には数千億円規模の追加投資が必要だという。それでも、成果が見通せない施設である。廃炉は当然だ。これまで決断を先送りしてきた政府の責任も、厳しく問われなければならない。

決断遅れた政府に責任

 原発の使用済み核燃料を再処理し、抽出したプルトニウムをウランと混ぜた混合酸化物(MOX)燃料に加工して、原発で再び燃やす。これが核燃料サイクルで、日本は国策としてきた。消費した以上のプルトニウムを生み出す高速増殖炉は、使用済み核燃料の再処理工場とともに、サイクルの中核施設となる。
 閣僚会議の決定で首をひねらざるを得ないのは、もんじゅを廃炉にするにもかかわらず、核燃料サイクル政策や高速炉の研究開発は維持する方針を示していることだ。
 核燃料サイクルの実現には、技術面や経済性、安全保障の観点からいくつもの課題がある。青森県六ケ所村に建設中の再処理工場も、トラブルなどで完成時期の延期を繰り返してきた。そこで目くらましとして中核施設のもんじゅを廃炉にし、破綻しているサイクル政策の延命を図るのが本当の狙いではないのか。
 政府は、核燃料サイクルで取り出したプルトニウムは準国産エネルギーで、エネルギー安全保障に資するという。だが、サイクルを維持することは、エネルギー政策で原発に依存し続けることを意味する。 
 東京電力福島第1原発事故の教訓の一つが、地震国日本で原発に依存するリスクは高いということだ。いずれ、やめる必要がある。政府はもんじゅ廃炉を機に、核燃料サイクル政策の幕引きに踏み切るべきだ。

 もんじゅは、原子炉の熱を取り出す冷却材に、空気や水に触れると燃える性質を持つ液体ナトリウムを使う。水を冷却材に使う通常の原発に比べ、高度な技術が必要だ。1995年12月にナトリウム漏れ事故を起こして停止して以来、ほとんど稼働していない。維持管理費だけで年間約200億円かかっている。
 多数の機器点検漏れなど安全管理上の不備が相次ぎ、原子力規制委員会は昨年11月、所管の文部科学省に運営主体の変更を勧告していた。
 文科省は、電力会社など民間の協力を得て新法人をつくる案を模索した。しかし、電力自由化で競争環境が厳しさを増す中、電力会社に運営主体となる選択肢はなかった。
 再稼働には、規制委の新規制基準にも合格しなければならない。政府の試算では、耐震補強工事などで約5800億円が必要となる。追加費用の多額さも、廃炉論を加速した。
 もんじゅ廃炉後の焦点は、再処理で抽出したプルトニウムをどのように消費するかだ。英仏に委託した使用済み核燃料の再処理などで、日本は既に国内外で約48トンの余剰プルトニウムを抱える。テロや核兵器への転用の懸念を解消するため、政府は「余剰プルトニウムは持たない」と国際社会に繰り返し訴えてきた。

安全保障上の懸念も

 電力会社でつくる電気事業連合会はMOX燃料を通常の原発で使う計画を立て、全国で16〜18基の原発に導入する予定だったが、福島第1原発事故の影響で崩れた。国内で稼働中の原発でMOX燃料を使っているのは、現時点で四国電力伊方原発3号機(愛媛県)だけだ。プルトニウムの消費は進んでいない。
 政府は、フランスが建設予定の新型高速炉計画「ASTRID(アストリッド)」での共同研究などにより、高速炉の研究開発に引き続き取り組むという。だが、ASTRIDが順調に進む保証はない。
 そもそも、福島第1原発事故後に政府の原子力委員会が実施した核燃料サイクル政策の評価によれば、経済面からは、使用済み核燃料を再処理するより、直接処分する方が有利との結果が出ている。
 非核保有国の日本が再処理できるのは、88年に発効した日米原子力協定で認められているからだ。協定は2年後に改定時期を迎える。11月の米大統領選で選ばれる新政権がどう対応するかは分からない。
 国内の政治家や外交当局には、将来の核保有を選択肢として残しておくべきだという意見もあるが、日本が核保有を選択すれば、世界から孤立する。現実的議論ではない。
 核燃料サイクルを見直す上で、最大の課題は、関連施設を受け入れてきた地元への対応だろう。
 もんじゅの関係自治体は、存続を要望している。再処理工場が立地する青森県は、核燃料サイクルを前提に、工場への使用済み核燃料受け入れを了承してきた。サイクル断念となれば、青森県は核のごみ捨て場になりかねない。電力会社も容易には使用済み燃料を引き取れない。
 政府は、核燃料サイクルの継続にこだわるよりも、こうした問題の解決策にこそ知恵を絞るべきだ。