2016年3月14日月曜日

160313学徒出陣を経験した慶應義塾出身者3名による座談会

座談会「70年後に語る戦時下の学生時代、そして戦争」

特別企画展『戦争の時代と大学』
@慶應大阪シティキャンパス



http://www.korc.keio.ac.jp/news/20160209000178.html

学徒出陣を経験した慶應義塾出身者3名による座談会
神代忠男氏(昭和19年三田会代表 陸軍で内地勤務)
柳井和臣氏(海軍の零戦特攻で出撃するも生還)
瀬川清氏(海軍の人間魚雷・回天特攻訓練中に終戦)
司会:慶應義塾福沢研究センター准教授 都倉武之

柳井和臣氏のテレビインタビュー

http://blogs.yahoo.co.jp/teripokin/13448157.html


7月22日
フジテレビ
FNNスピーク




アナ
太平洋戦争の末期に旧日本軍が編成した神風特攻隊
戦闘機に乗って敵に自爆攻撃を与える特攻隊は、戦局を打開する切り札として展開され、数多くの若者の命が散りました


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特攻隊員として出撃し帰還した男性は、戦後70年目の節目に当時の特攻と、その思いを語りました


ナレ
神風特攻隊、太平洋戦争終盤に行われたこの作戦で多くの若者が亡くなりました


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その特攻隊員の中に帰還して戦後を迎えた人がいます
柳井和臣(やないよしおみ)さん93歳



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元特攻隊員
柳井和臣さん

「万に一つも生きることのない特攻隊ですから
それなら男らしく逝こうじゃないかと」



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21歳の時に学徒出陣した柳井さんは、戦闘機パイロットのエリートコースと言われた、筑波海軍航空隊に配属されました

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戦争末期、日本が劣勢に立たされ上官達も次々と迎撃に出ました、しかし

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「もう戦闘機で実際アメリカに対抗しても 太刀打ちできないと感じた
もう特攻隊しかないなとゼロ戦が」


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柳井さんは、特攻隊への入隊を決意しました

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「いくぶん葛藤は皆も持っていたんだと思います
そりゃ22、3(歳)でいわゆる・・・散るわけですから命を落とすわけですから」


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表紙に回想という文字

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これは柳井さんが両親の為に遺書代わりに残したアルバムです


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お父さんお母さん では出發します
笑って死にます


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「とにかく母親を安心させたい
だから一切つらいということはこの(アルバムの)中にはない」


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そして、23歳の時柳井さんは特攻隊として出撃

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17機が出撃したものの、アメリカの艦隊を見つけられなかった柳井さん含む3機だけが帰還
その後出撃する機会はありませんでした


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「やっぱりどんなことがあっても
ちょっと(特攻)攻撃に出て 帰ってきたとなれば後ろめたい 気持ちとして」


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生きて帰ってきたことへの後悔

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しかしその後、ある人の言葉に救われました

「(特攻で散った)金子中尉のお母さんが最後に僕の肩に手を置いて
柳井さん良かったねえ あんた生きて帰ってきて と言われた
それで本当に・・・」


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特攻で散った上官の母親にかけられた言葉
この時初めて、息子の無事を願い続ける母親の気持ちを知ったのです


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Q日本はなぜ戦争をしてしまったのか


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「これは資源確保ですよ
当時の日本民族の子供、孫の代まで豊かにしてやりたいというね
(日本の)将来のことを考えてくれていた 
ただやり方は非常に問題があったんじゃないかと思う」



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柳井さんは、70年前も今も平和と繁栄を願う気持ちは変わらない
戦争した事実があるだけだと話しています

この事実を継承する事が、大切なのかもしれません


http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2015/12/70.html

都倉武之先生と聴く、元学徒兵・戦後70年目の語り

photo_instructor_806.jpg「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト。2013年に創始されたこのプロジェクトは、学び舎としての慶應義塾の立場から先の大戦を振り返り、体験の記録を収集し、次世代に継承していく、慶應義塾福澤研究センターが取り組んでいる調査研究活動である。
その具体的内容は、次の四つの柱からなる。
  1. モノ:一次資料(原資料)の収集
  2. 記憶:広範な聞き取りの実施
  3. データ:基礎的な数値の解明
  4. 公開:上記資料および調査研究報告の多様な公開

この、地味だけれどもきわめて重要な、しかも今すぐおこなわなければ間に合わないプロジェクトの中心に立っているのが、弱冠(と敢えて言おう)36歳の都倉武之准教授
今回の夕学は、この都倉先生を聴き手として、元学徒兵の方から往時の話を伺おうというものである。上記の四本柱で言えば、「2.記憶」と「4.公開」を同時におこなうという意欲的な取り組みでもある。
壇上には都倉先生のほかに、3名の元学徒兵の方が登られた。
瀬川清(せがわ・きよし)氏
・慶應義塾大学予科2年時に学徒出陣で海軍入隊。二等水兵、予備学生を経て海軍少尉。人間魚雷・回天の特攻訓練中に終戦。
江副隆愛(えぞえ・たかよし)氏
・上智大学1年時に学徒出陣で海軍入隊。二等水兵、予備学生を経て海軍少尉。九九式艦上爆撃機による特攻訓練を受け、茨城県の百里原航空隊で終戦。
神代忠男(こうしろ・ただお)氏
・慶應義塾大学2年時に学徒出陣で陸軍入営。二等兵、甲種幹部候補生を経て陸軍少尉。内地勤務で終戦。
学徒兵であった、ということは、3名とも齢九十を超えているということだ。
3名からすると都倉先生は、ちょうど孫の世代にあたる。
その、孫のような都倉先生が、学徒出陣に関する基本的事実を会場の聴衆に紹介したのち、いよいよ3名の方に質問を繰り出す。そして3名の口からは、当時の事実やそれぞれの想いが、次々と語り紡がれる。
3名が学徒出陣した昭和18年(1943年)12月は、日本の敗色がいよいよ濃くなっていく時期であった。
だがそれまで、慶應ボーイとして青春を謳歌していた神代氏は、「日本が負けているという意識がなかった。軍隊にも悲壮感がなかった」と振り返る。その理由は「日本の敗戦の情報がシャットアウトされていたから」だともいう。学生である自分が軍隊に入ることにも「みんなが行くからしょうがない、行こう」と、抵抗感は薄かったようだ。
一方、瀬川氏は「不安だった」と率直な心情を吐露する。
「国のため、というが、天皇陛下のためでも父母のためでもなく『国のため』に出ていく、ということに不安を覚えた」。
その想いを抱きながら、残されたわずかな時間を、自らの専攻である哲学を修めることに傾けつつ、入隊のその日を待っていた。
スクリーンには、誰もが一度は記録映像で見たことがあるだろう、雨降る神宮外苑で行われた学徒出陣の壮行会の写真が映し出される。映像を見上げた江副氏は、「ザッザッザッ、という軍靴の音が今でも頭に浮かんでくる」という。
だが、神代氏は、この壮行会に「行かなかった」と、意外なことを言い出す。
「玄関でゲートルを巻いていたら悪友二人がやって来て、『雨振りだから行くのはよそう、東条(英機、首相)の話なんか聞きたくない』と言われて、それもそうかと思って行かなかった。代わりに、日劇にダンシングチームを、つまり女の生脚を、見に行った(笑)」
出欠も取らなかった壮行会では、実際には神代氏のように欠席した学生も少なくなかったようである。
当時の大学進学率は約2%。3名は、家庭環境的にも恵まれた存在であったことは間違いない。そして軍隊に入っても幹部候補生として扱われ、じきに少尉に任ぜられている。
しかし多くの軍艦が沈められ、また燃料たる石油の備蓄も枯渇してゆく中で、海軍の2名は船乗りではなく「人間魚雷」ないし「艦上爆撃機」の要員として育てられてゆく。いずれも「特攻」を目的とした訓練である。
「対潜学校で水測訓練をしている時、急に集合がかかった。上官が『新しい兵器が開発された。乗組員に志願する者はいないか』と問うた。嫌とは言えない雰囲気の中、全員が『志願』した」
人間が乗り組んで敵艦船に体当たりする人間魚雷「回天」との出会いを、瀬川氏はそう述懐した。
「兵学校の教官に、『これが貴様らの棺桶だ』と言われた時、武者震いがした。不気味なものだった。ぞっとした。ああ、これからこれに乗るんだな、と思った」。
当初50時間だった訓練時間も、戦況の悪化に伴い25時間に半減となり、いよいよ自分の番かと思った時に、訓練がなぜか2、3日停止された。そして上官に「君たちはもうここにいる必要はない」と言われた。そうして瀬川氏は、戦争が終わったことを知った。
それが8月の20日頃だったというから、8月15日の敗戦のその瞬間、瀬川氏はそうとは知らず、まだ特攻への覚悟を胸に戦争を戦っていたことになる。
江副氏が受けた操縦訓練も、艦上爆撃機といいながら、弾薬も消耗する中でもはや急降下爆撃の訓練をする余裕はなくなっていった。やがて、飛行機自体を「爆弾」として敵艦に突っこむことが求められた。大分・宇佐の練習航空隊はそのまま特攻基地に看板を掛け替えた。日々、仲間が特攻に赴き、自らも死を覚悟して出撃の日を待つうちに、終戦を迎えた。
陸軍に入営した神代氏の場合、配属先は六本木の近衛歩兵三連隊であった。天皇陛下を御護りするくらいだから品がいい部隊だろう、という読みは当たらなかった。海軍とは異なる、鉄拳制裁の嵐の中で、モノを考える余裕すらなくなっていったという。
そのような体験をされた方々が、今想うことは何か。
瀬川氏は「戦争は恐ろしい、人が人を殺すことは恐ろしい」と繰り返した。そして「男はどこかに闘争本能がある。これからは女性の時代だ」と今後への期待を述べた。
江副氏は、より辛辣だ。「今の日本人はひどすぎる。新聞やテレビを見ていると、生きている人より、あの時亡くなった連中の方が幸福ではないかと思う。素直で礼儀正しい、本物の日本人を育ててほしい」。
神代氏も語る。「戦争はなくならない。しかしどう考えても、人が人を殺すのは犯罪。チャップリンが言ったように、戦争で人を殺せば英雄になる。でも、世界中の人が知性で『人が人を殺すのは犯罪』と認識すれば、世界は大きく変わるだろう」。
最後に、都倉先生が、プロジェクトの意味づけを含めてまとめた。
「3名のお話を聴いて、あの戦争について今まで持っていたイメージと、一致するところもあれば違うところもあったと思う。だが大事なのは、戦争体験はこうだ、こうあるべきだ、という先入観を捨てて、多様な戦争体験をそのままに聴き、理解し、記録していくことだ。それこそが、『戦争について考える』ということだろう」。
質疑応答の時間、会場からはこんな質問が投げかけられた。
「学徒兵の体験は、少数の、特殊なものであろう。そこに偏することなく、多数派である『庶民兵』にきちんと目を向け、戦争の全容を明らかにしようとすべきではないか」。
質問者のその考え方に一定の理解を示しながらも、都倉先生はこう答えた。
「大学の人間として、なるべく自らに引き付けて考えるきっかけとすべく、まずは『学徒兵』から始めている。そして学徒兵は、書き物などのかたちで資料を多く遺してくれている。高等教育を受けた人にとって、ここが、自分と学徒兵の接点を見出す場になってほしい」。
歴史スケールの時間軸上で、あの大戦はすでに遥か遠方に霞む存在となっている。
全体像は見えてきた。一方、細部は日々、遠く、見えにくくなりつつある。戦争体験者の高齢化が進み、鳥の目ではなく虫の目で自らの体験として語れる人がいなくなるその前に、このようなプロジェクトが次世代への遺産をひとつでも多く収集し継承していくことを切に願う。
それが、やがて、全体像としての『あの戦争』の輪郭を、くっきりと浮かびあがらせる日が来るだろう。
全体は無数の個の集積である。そしてまた、あの大きな戦争は、ひとつひとつの小さいけれどもリアルな個の体験の総和であった。
その、ひとつひとつの体験に、虚心に耳を傾けること。
それこそが、それだけが、私たちがこれから経験する個の日常を照らす一閃となる。
人知れず、次の大きな戦争につながっているのかも知れない、この、個の日常に。
白澤健志

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