http://www.asaho.com/jpn/bkno/2007/1015.html
「安倍色」教科書検定と沖縄 2007年10月15日
9月29日(土)午後、宜野湾市の海浜公園で、11万6000人(主催者発表)が参加する大集会が開かれた。沖縄戦の「集団自決」(集団強制死)をめぐる文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会である。米兵による少女暴行事件に抗議する県民大会(1995年10月)の8万5000人を大きく上回る、「沖縄本土復帰後では最大の集会」となった。人口比でいえば、東京で100万人の大集会が開かれたと想像すればよい。集会は県議会各会派、県PTA連合会など22団体が主催。壇上には、県知事はじめ、県内41市町村の首長・議長が並んだ(先島諸島の自治体は独自集会を行う)。各界の代表や高校生などが次々に立って発言。300人が犠牲となった渡嘉敷島「集団自決」の生存者も体験を語った。そして最後に、次のような決議を行った。
「文部科学省は3月、来年度から使用される高校教科書の検定結果を公表したが、『集団自決』の記述について『沖縄戦の実態を誤解するおそれのある表現』との検定意見を付し、日本軍による命令・強制・誘導などの表現を削除・修正させた。『集団自決』が日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、削除・修正は体験者による数多くの証言を否定し歪曲しようとするものである。県民の総意として、国に対し、検定意見の撤回と記述の回復が直ちに行われるよう決議する」
強い日差しの中、時折心地よい風が吹いた。会場に入りきれない人々は、公園や隣の建物、小道、雑木林の中に座り、遠くで聞こえるマイクの声にじっと聞き入った。ステージが遠くても、見えなくても、そこに集まった二十二万の瞳は、検定撤回を求めるスピーチが続く舞台を静かに見詰め続けていた。けれども、あなたはそこにはいなかった。内間敏子さん=当時(19)。りんとしたまなざし、ピンクのブラウスがよく似合ったあなたは、座間味国民学校の教師。音楽が好きで、あなたがオルガンで奏でた重厚なハーモニーに感動し、戦後音楽の道へ進んだ教え子もいた。そのことをあなたは知らない。一九四五年三月二十六日、座間味村の「集団自決(強制集団死)」で亡くなった。
自ら手にかけなければならない子どもたちをぎゅっと抱きしめ、「こんなに大きくなったのに。生まれてこなければよかったね。ごめんね」と号泣した宮里盛秀さん=当時(33)。戦時下、座間味村助役兼兵事主任だったあなたは、「集団自決」の軍命を伝えることで、軍と住民の板挟みになり苦しんだ。「父が生きていれば、自分が見識がもっと広く、大局的な見方ができたらと悔やんでいたと思う」。一人残された娘の山城美枝子さん(66)は、あなたに代わって会場に立った。
なぜ、あなたたちは死に追い詰められたのか。残された人々が、私たちに語ってくれたことで、真実が伝えられた。
魂の底から震えるように、軍の命令で家族が手をかけ合った「集団自決」を話した。戦後、片時も忘れることができない体験。請われて語ることで自らも傷ついた。それでも、「集団自決」が、沖縄戦のようなことが再び起こらないように、奮い立ってくれた。
しかし、軍強制を削除した教科書検定は、「集団自決」の真実と、残された人々の心痛をも全て消し去った。
検定に連なる背景には、日本軍の加害を「自虐的」とし、名誉回復を目指す歴史修正主義の動きがある。「集団自決」は標的にされたのだ。
軍の名誉を守るために「集団自決」の真実を否定し、苦しさを乗り越え語る人々の心を踏みにじる。沖縄と、そこに生きる人々を踏みつけなければ、回復できない名誉とは、なんと狭量で、薄っぺらであることか。
時代が違えば、「集団自決」に追い込まれたのは、今、沖縄に生きる私たちだった。
沖縄戦を胸に刻んできた体験者、沖縄戦を考えることが心に芽吹いた若者たち。「集団自決」で死んで行ったあなたを、残された人々を、決して一人では立たせないとの思いで結集した。
十一万六千人もの人々が共に立ち、誓った。私たちの生きてきた歴史を奪うことは許さない。「集団自決」の事実を、沖縄戦の歴史を歪めることは許さない。舞台を静かに見据えた瞳はそう語っていた。
政府は、この二十二万の瞳にこたえよ。
(編集委員・謝花直美)
修正意見を受けて変更された記述には共通点がある。それは、「集団自決」への日本軍の関与の相対化である。三省堂と清水書院のように、「日本軍に」を削除することで直接関与性を否定するものから、山川のように、述語に受動態と能動態を混在させて、壕追い出しと「自決」を切断するよう「工夫」したもの、さらに、「おこった」(実教)、「おいこまれた」(東京書籍)という曖昧な表現を使ったものまでいろいろだが、軍の関わりを薄めるという点では同じ効果を発揮している。
戦争体験のなかで、この「集団自決」(集団的強制死)ほど悲惨なものはない。なぜなら、これは家族の物語だからである。戦闘で殺されたり、船が沈んだり、空襲で死んだりすることも、もちろん悲惨である。だが、「集団自決」では、親が子どもを、夫が妻を、その表情と呼吸と肌の温もりを感じながら手にかけ、返り血を浴びながら断末魔の声と表情を間近に見るという状況が現出する。銃剣で背中から刺すと、「子どもは肉が薄いので、むこうがわまで突きとおるのです。女の人はですね。上半身裸にして、左のオッパイを自分で上げさせて、刺したのです」( 『渡嘉敷村史』)。「首にカミソリ、血の海に」「手榴弾でも死にきれず」。集会当日、会場でも配付された『琉球新報』号外には、「軍が『死』強制、各地で悲劇」という見出しで、カラー写真と地図を使い、「集団自決」の悲劇が具体的に紹介されていた。
集会を前にして、1945年3月25日の座間味村「集団自決」の生存者が初めて証言した。この生存者の女性は、軍の命令で忠魂碑前に集結させられた住民に対して、軍人は「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手榴弾を渡したという。これが強制ではないのか。
恐怖と絶望の極致において、「一家心中」や「一族心中」的な現象が生まれた。何がそこまでさせたのか。住民たちは、不可抗力のように死に「追い込まれた」のではない。住民にとって、軍の存在は構造的なものである。命令書という形式がなくても、直接の命令がなくても、顔のみえる具体的な関係のなかで、他に選択肢を与えられないほどの心理的強制と、貴重な兵器である手榴弾を配るという具体的行為のなかに、軍による強制をみてとることは自然だろう。
教育勅語体制と呼ばれる戦前の教育による思想操縦と教化の影響も重要である。米兵に捕まれば殺されるという強迫観念を植えつけられた。家父長制社会が犠牲を広げたという指摘もある。戦陣訓で捕虜になる道を否定した旧日本軍の硬直した精神主義が、軍民混在の戦場において、住民に対して「死」を強制していった事実は誰も否定できないだろう。
歴史教科書の限られた記述のなかで、それらを詳細に書き込むことは不可能としても、これまでの研究に基づいて、最小限の表現は可能だろう。昨年までの記述は決して満足すべきものとはいえないものの、決して「沖縄戦の実態を誤解」させるようなものではなかった。従来の記述を修正させるような新たな歴史的事実でも発見されたか。あるいは学界の評価が変わったのか。そういうことは一切なかったのに、修正意見をつけた教科書調査官には、何とか軍の関与を薄めようとする、ある種の「意志」を感じざるを得ない。
実はこうした傾向は、安倍内閣になって目立つようになっていた。従軍慰安婦問題においても安倍首相(当時。以下同じ)は、国会答弁のなかで、「広義の強制はあったが、狭義の強制はなかった」という類の議論を展開した。ここにも、慰安婦問題における軍の関与を相対化しようという点で、共通する発想を感じる。命令の形式に過度にこだわり、実質的あるいは構造的な軍の関与を緩和しようとする試みは、旧日本軍の「名誉回復」という独自の問題意識をもった一部の人々の主張が、安倍内閣の誕生によって勢いを増してきたことと無関係ではないだろう。教科書を安倍色(カラー)に染め上げる。昨年から今年にかけて、非常に偏った「価値観政策」がこの国のさまざまな分野に浸透していったが、3月の修正変更はそのあらわれといえよう。
今年6月23日の沖縄戦没者追悼式に出席した安倍首相は、「軍の強制」について地元紙に質問されると、「審議会が学術的観点から検討している」と答えた。ちょうど1年前、安倍内閣発足時、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』が、「安倍は、ホロコーストに関して、あたかも補足や説明が必要であるかのように『専門家』に研究させたがっているイラン大統領に似ている」と皮肉ったことを思い出す。
沖縄の地元紙は、今回の検定について執拗に取材を続けた結果、軍の強制を示す記述を削除するように求めた検定意見は、文科省の教科書調査官が発案し、教科書会社とのやりとりのなかで、記述を削るよう強い影響力を与えたと断定している(『沖縄タイムス』9月29日特集面)。この行動は、「〔調査官は〕審議会の委員から出された意見を整理する役割」という文科省の説明と食い違う。安倍首相も、「審議会において、冷静沈着な、そして学識に裏づけられた論議をすべき」と答弁してきたが、とうの審議会の審議はかなり怪しい。
『沖縄タイムス』によると、今回の検定意見を決めた教科用図書検定調査審議会の2006年度日本史小委員会には4人の委員がいたが、沖縄史の専門家は1人もいなかった。そのうちの1人は、昨年6月に2刷となった自著のなかで、米軍上陸の日付を誤って記載していたという。同紙の取材に対して、もう1人の委員は、「沖縄を専門としている先生がいないので、議論のしようがない」と答えたという。同紙は、今回の検定意見では、「調査官が審議会で意見を通し、教科書の記述を削除するための主導的な役割を果たしていた」と結論づけている。なお、この教科書調査官の案がそのまま審議会で意見も出ずに検定意見となったことは、10月11日の衆院予算委員会で、文科省により確認された(『朝日新聞』10月12日付)。
この調査官の強引な動き方の背後に「安倍カラー」があったことは、容易に推測できる。いまや死語に近づいている「安倍お友だち内閣」では、「新しい歴史教科書をつくる会」などの人脈がさまざまなところに浸透した。とりわけキーパーソンは下村博文代議士。昨年9月段階で、教育改革を官邸機能の強化で行うことを説き、その一環として、「自虐史観に基づいた歴史教科書も官邸のチェックで改めさせる」と主張していた(『産経新聞』2006年9月4日付)。安倍内閣で官房副長官となって、歴史教科書も「官邸のチェックで改めさせる」行動に出たことは疑いない。「官邸のチェック」というのは、露骨な政治介入の表明である(このあたりの事情は『週刊金曜日』10月12日号のレポート〔藤吉孝二執筆〕に詳しい)。
今年3月に歴史教科書を「安倍色に染め上げる」試みが始まったとき、沖縄は怒りの声をあげた。県議会が全会一致で撤回の決議をしたが、本土のメディアの扱いは大きくはなかった。沖縄県議会代表などが文科省を訪れても、応対するのは審議官クラスだった。基地問題のときもそうだが、本土との落差はこの問題でも大きかった。しかし、「7.29」と、それに続く「9.12」で流れは一変した。
地方の怒りと不満は「7.29」参議院選挙に集中的に表現された。沖縄では、野党候補が圧勝した。そして、一国の首相が、国会で代表質問を受ける直前に「敵前逃亡」するという、議会史上空前絶後の珍事=「9.12事件」が起きた。これにより、自民党は存亡の危機に陥った。福田内閣は「背水の陣内閣」を掲げ、野党との話し合いを強調し、地方の声に過剰に応接する姿勢をとった。そのことで、地に落ちた「安倍カラー」からの「脱却」をはかりつつある。そして、「7.29」から2カ月目という絶妙なタイミングで、「9.29」大集会が行われたわけである。
集会当日の記者会見で、町村信孝官房長官は、「関係者の工夫と努力と知恵があり得るかもしれない」として、文科大臣に検討を指示したことを明らかにした。渡海紀三朗文科相も「検定制度に政治介入があってはならないが、関係者で知恵を出したい」と述べたという。これで、教科書会社が修正申告をして、「軍の強制」が復活する見込みが高まってきた。
では、今回の検定が実質的に「撤回」され、「集団自決」における軍の強制の記述が「復活」するか、あるいは、さらなる軍の関与が強調された記述に書き換えられれば、問題は解決といえるだろうか。私は、教科書検定の存在と仕組みに対して、そもそもの疑問をもっている。
小中高の教科書(教科用図書)は、文科大臣の検定に合格しなければ教科書として出版できない仕組みになっている(学校教育法21条、40条、51条)。この教科書検定制度は、憲法21条2項で禁止された「検閲」に該当するか否かが常に問われてきた。
この論点では、有名な家永教科書検定訴訟がある。第2次訴訟の一審判決(杉本判決。1970年7月17日)は、「審査が思想内容に及ぶものでない限り、教科書検定は検閲に該当しない」としながらも、当該検定は、「教科書執筆者としての思想(学問的見解)の内容を事前に審査するものというべきであるから、憲法21条2項の禁止する検閲に該当し、同時に、…記述内容の当否に介入するものであるから、教育基本法10条に違反する」と判示した。これに対して、第1次家永訴訟最高裁判決(1993年3月16日)は、税関検閲事件の最高裁判決の「検閲」の定義に依拠して、教科書検定について、(1) 一般図書として発行を妨げられないこと、(2) 発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないことを挙げて、教科書検定は検閲にあたらないとした。そして、(1) 教育の場においては、教育の中立・公正、一定水準の確保等の要請を実現するために、不適切と認められる図書の教科書としての発行・使用等を禁止する必要があること、(2) その制限も、教科書という特殊な形態における発行を禁ずるものにすぎないことから、「合理的で必要やむを得ない限度」の制限であって、違憲ではないとした。
教科書検定をめぐっては、その後も司法で個々の記述をめぐり、検定の行き過ぎが指摘されてきた。今回の問題では、検定を行う調査官が、特定の歴史観が押しつけ、不自然な修正を求めてきたわけである。それは、「価値観外交」とやらで外交にも歪みをもたらした安倍内閣が、「教育再生会議」などを通じて教育の分野にも手をつけ、教科書にまで「安倍カラー」を浸透させようとした「狼藉」の残滓である。端的にいえば、教科書検定制度が悪用された事例であり、上記の審議会の能力や、特定の価値観をもつ調査官の跳梁を許したことなど、検定制度それ自体がはらむ問題性も表面化した。
教科書は、小学校から高校までの児童・生徒が、その発達段階に応じて知識や技能を身につけさせるための一手段である。一般図書と異なり、全国的な水準の維持・確保などの要請には一定の合理性がある。だが、そこから直ちに、それを教科書の特殊性として、過剰な内容的介入を認めるのには疑問がある。検閲か否かは、「一般図書として発行を禁止されているかどうか」、「出版の前後かという違い」とは無関係であって、問題は、公正で迅速な司法判断を受けられる手続的保障があるや否や、である。手続保障を欠けば、それは検閲に該当するという説もある(阪本昌成『憲法理論III』128~129頁)。重要な指摘である。今回の問題の教訓は、時の政治権力が、記述内容の当否に過剰に介入したことにあるわけだから、教育基本法にいう「不当な支配」にあたるものとして、今後はそうした介入を許さないものにしていかなければならない。現行教科書検定制度の根本的見直しが求められる所以である。
さらに必要なことは、教科書それ自体の相対化の視点である。教科書だけに過度に依存をして、「よい教科書」ができれば即「よい教育」ができると考えるのは錯覚である。教科書は、学習の手段にすぎない。教科書を学ぶのでなく、教科書でも学ぶ。とりわけ歴史教育というのは、誰がやってもむずかしい。歴史教科書はどこの国でも問題をもっている。「集団自決」をどう教えるかも、かりに「軍の強制」の記述が復活しても、なおたくさんの課題がある。
文科省は、検定済教科書通りに教えることを教師に求めるが、教科書は「教化書」ではない。特定の政治権力のイデオロギー装置になってはらないない。何よりも、教室は創造的な場である。生徒の鋭い着想や気づき、批判力に依拠して、むしろ、歴史教科書そのものを相対化して、それを素材に議論をすることも必要だろう。教師の教える能力も問われてくる。
なお、教科書問題に限らず、安倍色(カラー)の克服にはまだまだ時間と労力がかかるだろう。教育基本法は「改正」されてしまった。これをもとに戻すことが課題である。だから、この10月に刊行された三省堂『新六法2008』では、編者で議論をして、「安倍カラー」の現行教育基本法と、日本国憲法と一体のものとしての「旧」教育基本法の両方を収録してある。収録の期限は、いつか「旧」の方が復活する日まで、である。それと、安倍前首相が「私の任期中に」と意気込み、無理して成立に持ち込んだ「憲法改正手続法」(国民投票法)も収録したが、そこには、18項目の附帯決議を全文収録した。六法に附帯決議を入れるのは前代未聞だが、私はこの法律の致命的欠陥として、どのような行為が犯罪となるかを定めるところの犯罪構成要件が不明確であることを、附帯決議で吐露して成立した点にあると思っている。この附帯決議こそ、この法律の問題点をあぶりだす「指針」として意味があると考え、収録に踏み切ったものである(『新六法2008』31頁)。
最後に一言。沖縄の「9.29」は歴史に残る大集会となった。1989年11月4日(土)、旧東ベルリン・アレクサンダー広場で行われた50万人集会(一説には100万人)が、5日後の「ベルリンの壁」崩壊のきっかけになったように、「22万の瞳」、沖縄の11万人集会は、「安倍カラー」の脱色化にとどまらず、地方の声が中央政府を動かすことができることをも示した。まさに「山が動いた」のである。