2016年3月28日月曜日

071015「安倍色」教科書検定と沖縄


http://www.asaho.com/jpn/bkno/2007/1015.html
「安倍色」教科書検定と沖縄  2007年10月15日

月29日(土)午後、宜野湾市の海浜公園で、11万6000人(主催者発表)が参加する大集会が開かれた。沖縄戦の「集団自決」(集団強制死)をめぐる文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会である。米兵による少女暴行事件に抗議する県民大会(1995年10月)の8万5000人を大きく上回る、「沖縄本土復帰後では最大の集会」となった。人口比でいえば、東京で100万人の大集会が開かれたと想像すればよい。集会は県議会各会派、県PTA連合会など22団体が主催。壇上には、県知事はじめ、県内41市町村の首長・議長が並んだ(先島諸島の自治体は独自集会を行う)。各界の代表や高校生などが次々に立って発言。300人が犠牲となった渡嘉敷島「集団自決」の生存者も体験を語った。そして最後に、次のような決議を行った
  「文部科学省は3月、来年度から使用される高校教科書の検定結果を公表したが、『集団自決』の記述について『沖縄戦の実態を誤解するおそれのある表現』との検定意見を付し、日本軍による命令・強制・誘導などの表現を削除・修正させた。『集団自決』が日本軍による関与なしに起こり得なかったことは紛れもない事実であり、削除・修正は体験者による数多くの証言を否定し歪曲しようとするものである。県民の総意として、国に対し、検定意見の撤回と記述の回復が直ちに行われるよう決議する」
主催者は、当初5万人を目標にしていたようだが、予想をはるかに上回る参加者に、沖縄の怒りと危機感の大きさを感じた。3世代で参加したという家族もあり、制服の高校生など若い世代の参加者も多かった。戦後62年。参加者の多くが沖縄戦を知らない世代である。会場で執筆された次の文章から、この集会に託された想いが伝わってくる。『沖縄タイムス』2007年9月30日付28面(1面とつながる総合面)トップの、同紙編集委員のコラム「22万の瞳にこたえよ」である

  強い日差しの中、時折心地よい風が吹いた。会場に入りきれない人々は、公園や隣の建物、小道、雑木林の中に座り、遠くで聞こえるマイクの声にじっと聞き入った。ステージが遠くても、見えなくても、そこに集まった二十二万の瞳は、検定撤回を求めるスピーチが続く舞台を静かに見詰め続けていた。
  けれども、あなたはそこにはいなかった。
内間敏子さん=当時(19)。りんとしたまなざし、ピンクのブラウスがよく似合ったあなたは、座間味国民学校の教師。音楽が好きで、あなたがオルガンで奏でた重厚なハーモニーに感動し、戦後音楽の道へ進んだ教え子もいた。そのことをあなたは知らない。一九四五年三月二十六日、座間味村の「集団自決(強制集団死)」で亡くなった。
  自ら手にかけなければならない子どもたちをぎゅっと抱きしめ、「こんなに大きくなったのに。生まれてこなければよかったね。ごめんね」と号泣した宮里盛秀さん=当時(33)。戦時下、座間味村助役兼兵事主任だったあなたは、「集団自決」の軍命を伝えることで、軍と住民の板挟みになり苦しんだ。「父が生きていれば、自分が見識がもっと広く、大局的な見方ができたらと悔やんでいたと思う」。一人残された娘の山城美枝子さん(66)は、あなたに代わって会場に立った。
  なぜ、あなたたちは死に追い詰められたのか。残された人々が、私たちに語ってくれたことで、真実が伝えられた。
  魂の底から震えるように、軍の命令で家族が手をかけ合った「集団自決」を話した。戦後、片時も忘れることができない体験。請われて語ることで自らも傷ついた。それでも、「集団自決」が、沖縄戦のようなことが再び起こらないように、奮い立ってくれた。
  しかし、軍強制を削除した教科書検定は、「集団自決」の真実と、残された人々の心痛をも全て消し去った。
  検定に連なる背景には、日本軍の加害を「自虐的」とし、名誉回復を目指す歴史修正主義の動きがある。「集団自決」は標的にされたのだ。
  軍の名誉を守るために「集団自決」の真実を否定し、苦しさを乗り越え語る人々の心を踏みにじる。沖縄と、そこに生きる人々を踏みつけなければ、回復できない名誉とは、なんと狭量で、薄っぺらであることか。
  時代が違えば、「集団自決」に追い込まれたのは、今、沖縄に生きる私たちだった。
  沖縄戦を胸に刻んできた体験者、沖縄戦を考えることが心に芽吹いた若者たち。「集団自決」で死んで行ったあなたを、残された人々を、決して一人では立たせないとの思いで結集した。
  十一万六千人もの人々が共に立ち、誓った。私たちの生きてきた歴史を奪うことは許さない。「集団自決」の事実を、沖縄戦の歴史を歪めることは許さない。舞台を静かに見据えた瞳はそう語っていた。
  政府は、この二十二万の瞳にこたえよ。
(編集委員・謝花直美)
ここまで沖縄を怒らせたのは、どのような記述変更だったのだろうか。「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現」という修正意見に対する、5社の変更点は次のようなもっだった。三省堂の日本史A/Bでは「日本軍に『集団自決』を強いられたり」が、「追いつめられて『集団自決』した人や」に、清水書院・日本史Bでは「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」が、「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」に変更された。山川出版・日本史Aでは「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」から、「日本軍に壕を追い出されたり、自決した住民もいた」に変えられた。実教出版・日本史Bでは、「日本軍は、(中略)日本軍がくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ」から、「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」へ。そして、東京書籍・日本史Aでは、「強いられた」から「おいこまれた」に変えられた。
   修正意見を受けて変更された記述には共通点がある。それは、「集団自決」への日本軍の関与の相対化である。三省堂と清水書院のように、「日本軍に」を削除することで直接関与性を否定するものから、山川のように、述語に受動態と能動態を混在させて、壕追い出しと「自決」を切断するよう「工夫」したもの、さらに、「おこった」(実教)、「おいこまれた」(東京書籍)という曖昧な表現を使ったものまでいろいろだが、軍の関わりを薄めるという点では同じ効果を発揮している。
  戦争体験のなかで、この「集団自決」(集団的強制死)ほど悲惨なものはない。なぜなら、これは家族の物語だからである。戦闘で殺されたり、船が沈んだり、空襲で死んだりすることも、もちろん悲惨である。だが、「集団自決」では、親が子どもを、夫が妻を、その表情と呼吸と肌の温もりを感じながら手にかけ、返り血を浴びながら断末魔の声と表情を間近に見るという状況が現出する。銃剣で背中から刺すと、「子どもは肉が薄いので、むこうがわまで突きとおるのです。女の人はですね。上半身裸にして、左のオッパイを自分で上げさせて、刺したのです」( 『渡嘉敷村史』)。「首にカミソリ、血の海に」「手榴弾でも死にきれず」。集会当日、会場でも配付された『琉球新報』号外には、「軍が『死』強制、各地で悲劇」という見出しで、カラー写真と地図を使い、「集団自決」の悲劇が具体的に紹介されていた。
   集会を前にして、1945年3月25日の座間味村「集団自決」の生存者が初めて証言した。この生存者の女性は、軍の命令で忠魂碑前に集結させられた住民に対して、軍人は「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手榴弾を渡したという。これが強制ではないのか。
  恐怖と絶望の極致において、「一家心中」や「一族心中」的な現象が生まれた。何がそこまでさせたのか。住民たちは、不可抗力のように死に「追い込まれた」のではない。住民にとって、軍の存在は構造的なものである。命令書という形式がなくても、直接の命令がなくても、顔のみえる具体的な関係のなかで、他に選択肢を与えられないほどの心理的強制と、貴重な兵器である手榴弾を配るという具体的行為のなかに、軍による強制をみてとることは自然だろう。
   教育勅語体制と呼ばれる戦前の教育による思想操縦と教化の影響も重要である。米兵に捕まれば殺されるという強迫観念を植えつけられた。家父長制社会が犠牲を広げたという指摘もある。戦陣訓で捕虜になる道を否定した旧日本軍の硬直した精神主義が、軍民混在の戦場において、住民に対して「死」を強制していった事実は誰も否定できないだろう。
   歴史教科書の限られた記述のなかで、それらを詳細に書き込むことは不可能としても、これまでの研究に基づいて、最小限の表現は可能だろう。昨年までの記述は決して満足すべきものとはいえないものの、決して「沖縄戦の実態を誤解」させるようなものではなかった。従来の記述を修正させるような新たな歴史的事実でも発見されたか。あるいは学界の評価が変わったのか。そういうことは一切なかったのに、修正意見をつけた教科書調査官には、何とか軍の関与を薄めようとする、ある種の「意志」を感じざるを得ない。
  実はこうした傾向は、安倍内閣になって目立つようになっていた。従軍慰安婦問題においても安倍首相(当時。以下同じ)は、国会答弁のなかで、「広義の強制はあったが、狭義の強制はなかった」という類の議論を展開した。ここにも、慰安婦問題における軍の関与を相対化しようという点で、共通する発想を感じる。命令の形式に過度にこだわり、実質的あるいは構造的な軍の関与を緩和しようとする試みは、旧日本軍の「名誉回復」という独自の問題意識をもった一部の人々の主張が、安倍内閣の誕生によって勢いを増してきたことと無関係ではないだろう。教科書を安倍色(カラー)に染め上げる。昨年から今年にかけて、非常に偏った「価値観政策」がこの国のさまざまな分野に浸透していったが、3月の修正変更はそのあらわれといえよう。
  今年6月23日の沖縄戦没者追悼式に出席した安倍首相は、「軍の強制」について地元紙に質問されると、「審議会が学術的観点から検討している」と答えた。ちょうど1年前、安倍内閣発足時、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』が、「安倍は、ホロコーストに関して、あたかも補足や説明が必要であるかのように『専門家』に研究させたがっているイラン大統領に似ている」と皮肉ったことを思い出す
   沖縄の地元紙は、今回の検定について執拗に取材を続けた結果、軍の強制を示す記述を削除するように求めた検定意見は、文科省の教科書調査官が発案し、教科書会社とのやりとりのなかで、記述を削るよう強い影響力を与えたと断定している(『沖縄タイムス』9月29日特集面)。この行動は、「〔調査官は〕審議会の委員から出された意見を整理する役割」という文科省の説明と食い違う。安倍首相も、「審議会において、冷静沈着な、そして学識に裏づけられた論議をすべき」と答弁してきたが、とうの審議会の審議はかなり怪しい。
   『沖縄タイムス』によると、今回の検定意見を決めた教科用図書検定調査審議会の2006年度日本史小委員会には4人の委員がいたが、沖縄史の専門家は1人もいなかった。そのうちの1人は、昨年6月に2刷となった自著のなかで、米軍上陸の日付を誤って記載していたという。同紙の取材に対して、もう1人の委員は、「沖縄を専門としている先生がいないので、議論のしようがない」と答えたという。同紙は、今回の検定意見では、「調査官が審議会で意見を通し、教科書の記述を削除するための主導的な役割を果たしていた」と結論づけている。なお、この教科書調査官の案がそのまま審議会で意見も出ずに検定意見となったことは、10月11日の衆院予算委員会で、文科省により確認された(『朝日新聞』10月12日付)。
  この調査官の強引な動き方の背後に「安倍カラー」があったことは、容易に推測できる。いまや死語に近づいている「安倍お友だち内閣」では、「新しい歴史教科書をつくる会」などの人脈がさまざまなところに浸透した。とりわけキーパーソンは下村博文代議士。昨年9月段階で、教育改革を官邸機能の強化で行うことを説き、その一環として、「自虐史観に基づいた歴史教科書も官邸のチェックで改めさせる」と主張していた(『産経新聞』2006年9月4日付)。安倍内閣で官房副長官となって、歴史教科書も「官邸のチェックで改めさせる」行動に出たことは疑いない。「官邸のチェック」というのは、露骨な政治介入の表明である(このあたりの事情は『週刊金曜日』10月12日号のレポート〔藤吉孝二執筆〕に詳しい)。
  今年3月に歴史教科書を「安倍色に染め上げる」試みが始まったとき、沖縄は怒りの声をあげた。県議会が全会一致で撤回の決議をしたが、本土のメディアの扱いは大きくはなかった。沖縄県議会代表などが文科省を訪れても、応対するのは審議官クラスだった。基地問題のときもそうだが、本土との落差はこの問題でも大きかった。しかし、「7.29」と、それに続く「9.12」で流れは一変した。
  地方の怒りと不満は「7.29」参議院選挙に集中的に表現された。沖縄では、野党候補が圧勝した。そして、一国の首相が、国会で代表質問を受ける直前に「敵前逃亡」するという、議会史上空前絶後の珍事=「9.12事件」が起きた。これにより、自民党は存亡の危機に陥った。福田内閣は「背水の陣内閣」を掲げ、野党との話し合いを強調し、地方の声に過剰に応接する姿勢をとった。そのことで、地に落ちた「安倍カラー」からの「脱却」をはかりつつある。そして、「7.29」から2カ月目という絶妙なタイミングで、「9.29」大集会が行われたわけである。
  集会当日の記者会見で、町村信孝官房長官は、「関係者の工夫と努力と知恵があり得るかもしれない」として、文科大臣に検討を指示したことを明らかにした。渡海紀三朗文科相も「検定制度に政治介入があってはならないが、関係者で知恵を出したい」と述べたという。これで、教科書会社が修正申告をして、「軍の強制」が復活する見込みが高まってきた。

   では、今回の検定が実質的に「撤回」され、「集団自決」における軍の強制の記述が「復活」するか、あるいは、さらなる軍の関与が強調された記述に書き換えられれば、問題は解決といえるだろうか。私は、教科書検定の存在と仕組みに対して、そもそもの疑問をもっている。
   小中高の教科書(教科用図書)は、文科大臣の検定に合格しなければ教科書として出版できない仕組みになっている(学校教育法21条、40条、51条)。この教科書検定制度は、憲法21条2項で禁止された「検閲」に該当するか否かが常に問われてきた。
  この論点では、有名な家永教科書検定訴訟がある。第2次訴訟の一審判決(杉本判決。1970年7月17日)は、「審査が思想内容に及ぶものでない限り、教科書検定は検閲に該当しない」としながらも、当該検定は、「教科書執筆者としての思想(学問的見解)の内容を事前に審査するものというべきであるから、憲法21条2項の禁止する検閲に該当し、同時に、…記述内容の当否に介入するものであるから、教育基本法10条に違反する」と判示した。これに対して、第1次家永訴訟最高裁判決(1993年3月16日)は、税関検閲事件の最高裁判決の「検閲」の定義に依拠して、教科書検定について、(1) 一般図書として発行を妨げられないこと、(2) 発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないことを挙げて、教科書検定は検閲にあたらないとした。そして、(1) 教育の場においては、教育の中立・公正、一定水準の確保等の要請を実現するために、不適切と認められる図書の教科書としての発行・使用等を禁止する必要があること、(2) その制限も、教科書という特殊な形態における発行を禁ずるものにすぎないことから、「合理的で必要やむを得ない限度」の制限であって、違憲ではないとした。
  教科書検定をめぐっては、その後も司法で個々の記述をめぐり、検定の行き過ぎが指摘されてきた。今回の問題では、検定を行う調査官が、特定の歴史観が押しつけ、不自然な修正を求めてきたわけである。それは、「価値観外交」とやらで外交にも歪みをもたらした安倍内閣が、「教育再生会議」などを通じて教育の分野にも手をつけ、教科書にまで「安倍カラー」を浸透させようとした「狼藉」の残滓である。端的にいえば、教科書検定制度が悪用された事例であり、上記の審議会の能力や、特定の価値観をもつ調査官の跳梁を許したことなど、検定制度それ自体がはらむ問題性も表面化した。
  教科書は、小学校から高校までの児童・生徒が、その発達段階に応じて知識や技能を身につけさせるための一手段である。一般図書と異なり、全国的な水準の維持・確保などの要請には一定の合理性がある。だが、そこから直ちに、それを教科書の特殊性として、過剰な内容的介入を認めるのには疑問がある。検閲か否かは、「一般図書として発行を禁止されているかどうか」、「出版の前後かという違い」とは無関係であって、問題は、公正で迅速な司法判断を受けられる手続的保障があるや否や、である。手続保障を欠けば、それは検閲に該当するという説もある(阪本昌成『憲法理論III』128~129頁)。重要な指摘である。今回の問題の教訓は、時の政治権力が、記述内容の当否に過剰に介入したことにあるわけだから、教育基本法にいう「不当な支配」にあたるものとして、今後はそうした介入を許さないものにしていかなければならない。現行教科書検定制度の根本的見直しが求められる所以である。
  さらに必要なことは、教科書それ自体の相対化の視点である。教科書だけに過度に依存をして、「よい教科書」ができれば即「よい教育」ができると考えるのは錯覚である。教科書は、学習の手段にすぎない。教科書を学ぶのでなく、教科書でも学ぶ。とりわけ歴史教育というのは、誰がやってもむずかしい。歴史教科書はどこの国でも問題をもっている。「集団自決」をどう教えるかも、かりに「軍の強制」の記述が復活しても、なおたくさんの課題がある。
   文科省は、検定済教科書通りに教えることを教師に求めるが、教科書は「教化書」ではない。特定の政治権力のイデオロギー装置になってはらないない。何よりも、教室は創造的な場である。生徒の鋭い着想や気づき、批判力に依拠して、むしろ、歴史教科書そのものを相対化して、それを素材に議論をすることも必要だろう。教師の教える能力も問われてくる。
  なお、教科書問題に限らず、安倍色(カラー)の克服にはまだまだ時間と労力がかかるだろう。教育基本法は「改正」されてしまった。これをもとに戻すことが課題である。だから、この10月に刊行された三省堂『新六法2008』では、編者で議論をして、「安倍カラー」の現行教育基本法と、日本国憲法と一体のものとしての「旧」教育基本法の両方を収録してある。収録の期限は、いつか「旧」の方が復活する日まで、である。それと、安倍前首相が「私の任期中に」と意気込み、無理して成立に持ち込んだ「憲法改正手続法」(国民投票法)も収録したが、そこには、18項目の附帯決議を全文収録した。六法に附帯決議を入れるのは前代未聞だが、私はこの法律の致命的欠陥として、どのような行為が犯罪となるかを定めるところの犯罪構成要件が不明確であることを、附帯決議で吐露して成立した点にあると思っている。この附帯決議こそ、この法律の問題点をあぶりだす「指針」として意味があると考え、収録に踏み切ったものである(『新六法2008』31頁)。
  最後に一言。沖縄の「9.29」は歴史に残る大集会となった。1989年11月4日(土)、旧東ベルリン・アレクサンダー広場で行われた50万人集会(一説には100万人)が、5日後の「ベルリンの壁」崩壊のきっかけになったように、「22万の瞳」、沖縄の11万人集会は、「安倍カラー」の脱色化にとどまらず、地方の声が中央政府を動かすことができることをも示した。まさに「山が動いた」のである。   

160327民進党結党宣言・基本綱領

結党宣言
2016年03月27日

 「自由」「共生」「未来への責任」――。我々は、これらの旗を高く掲げ、力強く国民とともに進む。
 日本は今、人口減少、巨額の財政赤字、経済の長期停滞という構造問題に直面している。格差は拡大し、多くの国民、とりわけ子どもや若者が将来に確かな希望を持つことができない状況にある。自国の安全と世界平和をどのように実現するかが問われる中、憲法の平和主義がないがしろにされ、立憲主義が揺らいでいる。
 戦後70年、我々は時代の大きな分岐点に立っている。ここで道を誤ってはならない。一人ひとりが大切にされ、安心して生活できる社会、そして平和な日本を強い決意を持って実現しなければならない。
 国民が持つ潜在能力の高さ、次世代に責任を果たすという強い思い、そして、多様性を認め互いに支え合う精神がある限り、いかなる困難も乗り越えることができる。こうした国民が持つ力を引き出すことこそが政治の役割である。日本には明るい未来がある。
 政治は、国民の信頼があってはじめて成り立つ。我々はかつて、国民の信頼に十分応えることができなかった。このことを深く反省したうえで、いかなる困難な問題も果敢に決断し、結束して事に当たる強い覚悟を、一人ひとりが共有する。
 本日、我々は、強い危機感と使命感を持って、野党勢力を結集し、政権を担うことのできる新たな政党をつくる。志を共有するすべての人々に広く結集を呼びかける。国民の信頼に支えられ、国民とともに進む、真の意味での国民政党となることを誓い、ここに民進党の結党を宣言する。

民進党綱領

2016年03月27日

(私たちの立場)
 我が党は、「生活者」「納税者」「消費者」「働く者」の立場に立つ。
 未来・次世代への責任を果たし、既得権や癒着の構造と闘う、国民とともに進む改革政党である。

(私たちの目指すもの)

一. 自由と民主主義に立脚した立憲主義を守る

 私たちは、日本国憲法が掲げる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を堅持し、自由と民主主義に立脚した立憲主義を断固として守る。象徴天皇制のもと、新しい人権、統治機構改革など時代の変化に対応した未来志向の憲法を国民とともに構想する。

二. 共生社会をつくる

 私たちは、一人一人がかけがえのない個人として尊重され、多様性を認めつつ互いに支え合い、すべての人に居場所と出番がある、強くてしなやかな共に生きる社会をつくる。
 男女がその個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画を推進する。
 「新しい公共」を担う市民の自治を尊び、地方自治体、学校、NPO、地域社会やそれぞれの個人が十分に連携し合う社会を実現する。
 正義と公正を貫き、個人の自立を尊重しつつ、同時に弱い立場に置かれた人々とともに歩む。

三. 未来への責任 改革を先送りしない

 私たちは、未来を生きる次世代のため、税金のムダ遣いを排するとともに、国の借金依存体質を変える行財政改革、政治家が自らを律し身を切るなどの政治改革、地方の創意工夫による自立を可能とする地域主権改革を断行する。
 原発に頼らない社会を目指すとともに、東日本大震災からの復興を実現し、未来への責任を果たす。

四. 人への投資で持続可能な経済成長を実現する

 私たちは、市場経済を基本とし、地球環境との調和のもと、経済成長を実現する。安全・安心を旨とした上で、市場への新規参入を促し、起業を促進する規制改革を実行する。
 経済成長は幸福をもたらすものでなくてはならない。公正な分配による人への投資なくして持続可能な成長は達成できない。持続可能な社会保障制度の確立、生涯を通じた学びの機会の保障など人への投資によって、人々の能力の発揮を阻んでいる格差を是正する。それによって支え合う力を育み、幸福のための成長を実現する。

五. 国を守り国際社会の平和と繁栄に貢献する

 私たちは、専守防衛を前提に外交安全保障における現実主義を貫く。我が国周辺の安全保障環境を直視し、自衛力を着実に整備して国民の生命・財産、領土・領海・領空を守る。日米同盟を深化させ、アジアや太平洋地域との共生を実現する。
 国際連合をはじめとした多国間協調の枠組みを基調に国際社会の平和と繁栄に貢献し、核兵器廃絶、人道支援、経済連携などにより、開かれた国益と広範な人間の安全保障を実現する。
以上


2016年3月26日土曜日

160325日刊ゲンダイ:NHKに「情報操作」疑惑…キャスターら抗議会見も取材せず

NHKに「情報操作」疑惑…キャスターら抗議会見も取材せず


2016.03.25 日刊ゲンダイ


ベテランキャスターらが世界に告発(C)AP
「何でいないんですかね。こういう所にNHKは来るべきですよ」――ジャーナリストの大御所たちがカンカンだった。

 24日、外国特派員協会の主催で、ジャーナリスト5人が記者会見を行った。登壇したのは岸井成格氏(71)、田原総一朗氏(81)、鳥越俊太郎氏(76)、大谷昭宏氏(70)、青木理氏(50)。青木氏以外は70歳を越えるベテランばかりだ。

 彼らの結束は、高市早苗総務相の「電波停止」発言をはじめ、安倍政権のメディア潰しと、それに萎縮する腑抜けメディアに抗議するため。この日も「(高市発言は)憲法と放送法の精神に真っ向から反する。知らなかったら大臣失格。故意に曲解したなら、言論統制への布石だ。どこまでも責任追及していく」(岸井氏)、「あれは安倍総理へのゴマスリ。安倍さんが高市さん以外の女性を相当信頼しているから、『私だってこんなにやっているんだぞ』と」(田原氏)などと、ボルテージは上がりっぱなし。

■国会論戦ニュースは“政府答弁”で終了

 批判の矛先はNHKの報道姿勢にも向かった。冒頭の発言の主は岸井氏で、怒りのワケは会見の取材にNHKは記者もカメラも誰ひとり、参加しなかったこと。2月末に同じメンバーがそろった高市大臣への抗議会見の取材にも、NHKは来なかった。完全に無視を決め込んでいるのだ。

 大谷氏は「国民の受信料で成り立つ公共放送が、海外メディアですら高い関心を持っているにもかかわらず、何ら見向きもしない。この姿を(特派員に)見てもらえるだけで、日本のメディアの状況を分かってもらえる」と皮肉ったが、驚くのは次のやりとりだ。

 岸井氏が「(NHKは)いつも最後に政府与党の言い分をくっつけることでニュースを完結させようとしている」と指摘すると、大谷氏は「NHK内部の人」から聞いた話として、国会論戦のニュースは「必ず政府側答弁で終わらないといけない」と応じ、制作サイドで義務づけているように語ったのだ。

「テレビニュースは演説のようにメッセージを連呼できないだけに、視聴者の印象に残るのは、やはり最後の言葉となる。活字媒体なら記事を読み返せますが、ニュースを録画して見直す人はまずいない。しかも、視聴者は常に結論を待ってニュースを聞き流しているから、なおさらです。ニュースの結論を必ず政府の言い分で締めるのは、一種の情報操作と言えます」(明大講師・関修氏=心理学)

 NHKに事実関係を確認すると、「ご指摘のような事実はありません」との回答だった。

160325日刊ゲンダイ:ようやく賄賂問題に動き 特捜部が甘利氏告発者を任意聴取

ようやく賄賂問題に動き 特捜部が甘利氏告発者を任意聴取


2016.03.25 日刊ゲンダイ


国会欠席が続く甘利前経済再生担当相(C)日刊ゲンダイ
 甘利明前経済再生担当相(66)が大臣室で“ワイロ”を受け取った問題で、東京地検特捜部が、現金授受を内部告発した千葉県の建設会社の総務担当、一色武氏(62)から任意で事情を聴いたことが分かった。

 一色氏は先月の本紙取材に、特捜部の捜査に全面協力する意向を示し、なかなか接触してこないことをボヤいていたが、ようやく“念願”がかなった。

 甘利氏サイドや一色氏本人の説明によると、元公設秘書は2013年8月、一色氏から500万円を受領。甘利氏本人も13年11月と14年2月にそれぞれ50万円を大臣室などで受け取った。一色氏は「いずれも口利きの報酬だった」と証言していた。

 この間、甘利事務所は建設会社とURとの間の補償交渉トラブルについてUR職員と複数回協議していた。

 特捜部はすでにUR担当者を任意で聴取しているが、建設会社側の聴取は初めて。これだけ証拠が揃っていて立件できないはずはない。

160324日刊ゲンダイ:政府公表資料はウソ 安倍官邸が隠した米教授“本当の提言”

政府公表資料はウソ 安倍官邸が隠した米教授“本当の提言”


日刊ゲンダイ 2016.03.24

アベノミクスを全否定したスティグリッツ教授(C)AP
 22日に第3回が開かれた「国際金融経済分析会合」。米ニューヨーク市立大・クルーグマン教授も来年4月の消費増税反対を提言したが、増税延期の風向きが強くなったのは、先週16日に行われた第1回の米コロンビア大・スティグリッツ教授の提言がきっかけだった。

 だが、ちょっと待って欲しい。会合から2日後の18日に政府が公表したスティグリッツ教授提出の資料を見ると、消費増税についての記述はどこにもない。むしろ教授が提言したのは、TPPの欺瞞や量的緩和政策の失敗、格差の是正、つまりアベノミクスの全否定だった。

 提言のレジュメとみられる資料は48ページにわたり、例えばTPPについて次のように手厳しい。

〈米国にとってTPPの効果はほぼゼロと推計される〉〈TPPは悪い貿易協定であるというコンセンサスが広がりつつあり、米国議会で批准されないであろう〉〈特に投資条項が好ましくない――新しい差別をもたらし、より強い成長や環境保護等のための経済規制手段を制限する〉

 ただ、これは官邸の事務局による和訳で、本来の英文と比較すると、これでも「意図的に差し障りのない表現にしている」と言うのは、シグマ・キャピタルのチーフエコノミスト、田代秀敏氏だ。

「〈特に投資条項が好ましくない=Investment provisions especially objectionable〉ですが、強い不快感を表す単語【objectionable】を使っています。正確には、〈投資条項が、とりわけ、いかがわしい〉と訳すべきでしょう」

 他にも【inequality】を和訳で、アベノミクスに好都合な場合は「格差」とし、不都合な場合は「不平等」とする“都合のいい”使い分けが散見されると指摘する。

「『大不況に関する誤った診断』と題するスライドでは、旧『第1の矢』の金融緩和には期待された効果がないとし、『企業が投資に積極的にならないのは、需要が足りないからだ』と断言しています。世界で最も権威のある経済学者が日本国民のために全力で提言した結果が、アベノミクスの全否定でした。スティグリッツ教授は安倍首相に、アベノミクスを停止し、経済政策を百八十度転換することによって、7月のG7サミットで主導権を取ることを提言しているのです」(田代秀敏氏)

 それにしても、スティグリッツ教授の資料はどうして会合当日に公表されず、2日も遅れたのか。内閣官房の担当者は「和訳の適切性について疑義が出たりしまして……」と弁解していた。

 政府にとって“好ましくない”ことを隠し、消費増税への教授の意見を必要以上に“強調”したのだとすれば、大問題だ。

2016年3月21日月曜日

160320 エキタス新宿大街宣水野和夫先生スピーチ書きおこし

2016.03.20 エキタス新宿大街宣
水野和夫先生スピーチ書きおこし

https://m.youtube.com/watch?v=i1yijLTE8TU

51:54から1:00:38あたりまで

こんにちは。水野と申します。よろしくお願いします。今日はアベノミクスの問題点についてお話ししたいと思います。

アベノミクスというのは成長戦略が中心になっています。これは21世紀が始まった小泉総理大臣のときから「改革なくして成長なし」といわれました。これは具体的にどういうことを意味しているかといいますと、「リストラなしくて企業の利益成長なし」ということだったということが改めてわかったと思います。

今年の3月に終わる上場企業の最終利益は2年連続で戦後最高益になります。景気はそんなによくなっていないのになぜ企業が最高利益を更新できるのかといいますとそれは人件費を削減し、企業リストラ、今までのお話しにありましたように正規社員から非正規社員へという流れのなかで人件費を削ってきました。その結果働いでいる人全体の実質賃金というのはこの3年間で4%以上生活水準が下がりました。

で、これはアベノミクスだけで、この3年間で突然そんなことが起きたんじゃなく1997年からもう20年近くになるんですけども、ひとりあたりの実質賃金というのは下がり続けてます。この間景気回復というのは何度もあったんですけども、景気が回復しても賃金はあがらない。まあ、上がらないどころか景気が回復しても賃金は下がり、不況になるともっと下がるという繰り返しでした。従って景気をよくすれば何とかなるというのはもうまったくの幻想というのが20年経ったわけですから明らかになったと思います。

そしてよく「改革なくして成長なし」ということと、もうひとついわれるのが、「努力したものが報われる」といいますけども、これはあの、バブル崩壊後日本人で努力してない人っていうのは私はほとんどいないと思います。全員が一生懸命努力してその結果なんともならない、ということが起きてると思います。で結果的にこれも振り返ってみますと報われた人が努力したことにしようというふうに置き換わってる、すり変わってると思います。

これは一昨年ベストセラーになりましたピケティの「21世紀の資本」というところにアメリカのCEOといわれている人たちは経済学の生産性原理では説明できないほどの年収をとってる、とありました。それはあたかもスーパーのレジに手をつっこんでるようなもんだ、とピケティは言っています。

これは行間を読むとCEOといわれてる、スーパーCEOといわれてる人たちはもう一歩間違えば泥棒じゃないかということになります。本来はスーパーCEOの人がレジをかすめ取ってというのは販売員の人が本来手にすべき賃金をCEOという人が自分のふところに入れて何十億、何百億円、まあ日本はまだそこまでいってないですけども、こえれはあと10年、20年たてばおそらくアメリカと同じような方向にいま日本は向かってると思います。

これまでの20年間、あるいは30年間というのは結局成長というのはほとんどバブルに結びついてました。アベノミクスのこの3年間も日経平均株価が1万円から2万円になりました。で2万円になってもやっぱり賃金は上がらないということですし、そして2万円から株価が1万5千円に下がったらどうなったか、どうしたかといいますと今度は黒田日銀総裁がマイナス金利という政策を始めました。

これは現実には10年国債利回りがマイナスになりました。このマイナス利回りというのは、じゃあ誰が買ってか、10年持とうという人はあんまりいなくて今日買って明日日銀に売れば高く売れるという思わくに基づいています。ですからマイナス金利というのは今度は国債のバブルを作りはじめた。株式のバブルがはじけたら国債のバブルを作りはじめたということであります。

一方企業収益が最高益ですから株主は配当が非常に高いということです。で預金者はほとんど100万円預けて10円の利息、これはもう利息とはいわないと思います。配当は過去最高に対して預金者の利息はほとんど10円、というかATMを時間外で一回使ったら108円にですから事実上預金もマイナス金利になっているということになります。

ですから今のアベノミクスというのは、成長戦略というのは主語が抜けていると思います。誰が成長しているかといいますと株主が成長しているということになります。その株主のうちの半分は外国人投資家でありますから、成長してるうちの半分は外国人投資家ということになりますので、もうほとんど今の経済政策というのは民主主義からも大きくかけ離れていると思います。

そこでさきほどの今日のテーマにありますように最低賃金1000円、じゃなくて1500円、これでも300万円というのはやっぱり少ないと思います。ですからすぐに1500円に上げて、そういう経済政策、日本を180度切り変えていくということが必要だと私は思います。

この後野党の先生方が多分その期待に応えるような発言をしていただけると思いますので私も今日は楽しみに、この後各野党先生方のお話をうかがいたいと思っています。どうもありがとうございました。

(この後なんとコールが8回も!)

アベノミクスは絶対いらない。アベノミクスは絶対いらない。
アベノミクスは絶対いらない。アベノミクスは絶対いらない。

アベノミクスは絶対意味ない。アベノミクスは絶対意味ない。
アベノミクスは全然意味ない。アベノミクスは絶全然意味ない。

インタビュー『資本主義の終焉と歴史の危機』

青春と読書「インタビュー」

『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫 著


資本主義の終わり。
この大転換を
乗り越えるために。

資本主義の最終局面に立つ日本。
ゼロ金利が示すのは資本を投資しても
利潤の出ない資本主義の「死」の状態。
この「歴史の危機」を
乗り越えるためにはどうしたらよいのか。
今月発売された、
経済学者・水野和夫さんの新刊
『資本主義の終焉と歴史の危機』は
その提言をまとめた一冊です。
本書のガイダンスとして、
水野さんにお話しをうかがいました。
聞き手・構成=斎藤哲也/撮影=露木聡子
資本主義の死が近づいている
──水野さんの新著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)は文字通り、資本主義の死が近づいていることに警鐘を鳴らす内容になっています。
 リーマン・ショック以降、資本主義の危機を論じる本は多数出ていますが、水野さんのように「資本主義は終わる」と断言している本はほとんど見かけません。処方箋は違えども、資本主義を継続させることが前提になっている議論が多数派です。

 いまだに経済学者もエコノミストも「成長」を無条件に信奉しているからでしょうね。でも、成長を駆動するようなフロンティアはもう地球上のどこにもありません。「アフリカのグローバリゼーション」と叫んでいる段階で、地理的な市場拡大は最終局面に入っているわけです。金融市場だって、一万分の一秒単位の高速取引をして利潤をあげるような競争が起きています。そこまで時間を切り刻まないと利益を確保できないということは、金融空間も行き詰まっていることの現れです。
──もう資本が利潤を得られる空間は残されていないわけですね。
 そうです。そのことをはっきり物語っているのが、先進諸国の国債利回りです。日本では一九九七年に十年国債利回りが二・〇%を下回り、以来、現在までその状態が続いています。アメリカ、イギリス、ドイツでも低金利が続いています。
 金利というのは長期的に見ると、資本の利潤率とほぼ同じですから、利子率の低下は高い利潤をあげられる投資先がなくなったことを意味しています。
 資本を投下し、利潤を得て資本を増殖させることが資本主義の性質ですから、超低金利というのは資本主義が機能不全に陥っていることを示しているんです。
──人類史上初の現象ではないかと水野さんは指摘なさっています。
 現代と似た状況は、十六世紀末から十七世紀初頭のイタリアのジェノヴァでも起きていました。当時の先進地域イタリアでは金銀があふれているのに投資先がなくなっていて、金利二%を下回る時代が一一年続いたのです。
 とはいえ、日本の超低金利はすでに二○年近く続いていますし、一国だけの現象ではなく、グローバル化して市場がひとつになった現代で、他の先進国も日本化してきている。世界規模で利潤を得られる場所がなくなったという意味において、これは人類史上、初めてのことなのだと思います。
近代経済学の限界
──水野さんが日本の利子率の変化に違和感を持ったのはいつごろなんでしょうか。
 小泉政権の時代だったと思います。私は証券会社のエコノミストとして経済調査をしていたんですが、一九九七年に利子率が二%を割った当初は、一時的な落ち込みだと考えていました。ところがその後も一向に二%を超えない。これは何かおかしいと思って、歴史家フェルナン・ブローデルの『地中海』や歴史社会学者のイマニュエル・ウォーラーステインの『近代世界システム』を読みあさると、さきほどのイタリアの低金利の理由がしっかり説明されている。あっ、一六世紀末のイタリアの状況は、現代の日本とよく似ている、と気づいたんです。
──経済学ではなくて、世界史的な視線で考えようとしたわけですね。歴史以外にも、水野理論には人文・思想、社会科学、文学など非常に広範な分野の知が流れ込んでいるように感じられます。
 時代の転機には、学問の体系も一変します。中世では神学が最大のイデオロギーでしたが、デカルトやニュートンが登場して合理的な世界観というものが近代の柱になるわけですよね。経済学もそのうちの一つとしてできあがったものです。
 だとすると、歴史の危機である現代を分析するにしても、様々な知を咀嚼しなければ見えないものがあるように思うんです。それでドイツの法哲学者のカール・シュミットを読んだり、政治思想家たちの帝国論を読んだりして、この時代の実像をつかまえようとしてきました。
──その結果、近代資本主義の終焉は近いという結論に達したわけですね。
 ええ。結局、グローバル化以前の資本主義は、全人口の二割にあたる先進国の人々が、独占的に資源を安く手に入れることで豊かさを享受するシステムでした。一方、二一世紀のグローバリゼーションは、新興国や途上国の五十億人が、わずか二〇〜三〇年で先進国同様の豊かさを手に入れようとしています。
 でも、資本主義というのはそもそも全人口の二割しか豊かになれないシステムなんです。七〇億人が資本主義をやろうとしたら、パンクするのは目に見えています。
グローバル資本主義の暴走が民主主義を破壊する
──本のなかで印象的だったのは、バブル崩壊による壊滅的な危機を防ぐためには、できるだけ資本主義にブレーキをかけて延命させなければいけない、と語っている部分です。
 フロンティアが消滅した以上、どのみち資本主義は終わらざるをえません。でも、先のシステムがまだ見えていないのですから、その準備をするためにも、もうしばらくは資本主義に持ちこたえてもらわないといけないのです。
 ところがその音頭を取るべき先進国さえ、ブレーキどころか量的緩和や積極財政でわざわざ危機を加速させています。さらに法人税の引き下げ競争のように、グローバル企業に有利な制度ばかりをつくっている始末です。
 もはや国家も資本にこき使われている状態なんでしょう。グローバルな資本帝国はバブルを起こしてごっそり儲け、バブルが弾けても公的資金で救済されてきました。そのツケは、リストラや賃下げという形で国民が払わされてきたわけですね。
 その結果起きたのが、格差・貧困の拡大や中間層の没落です。
 アメリカが超格差社会であることは言わずもがなですが、日本でも金融資産ゼロ世帯が三一%にのぼります。七〇年代半ばから八〇年代前半にかけては三〜五%ですから、およそ三〇年にわたって中間層の富は失われ続けたといっていいでしょう。
 この中間層の没落は、民主主義の危機に直結します。それはこういうことです。市民革命以後、資本主義と民主主義が両輪となって主権国家システムを発展させてきましたが、民主主義の経済的な意味とは、適切な労働分配率を維持すること、端的に言えば適切な賃金水準を維持することです。しかし資本と国家が一体となって、中間層の賃金を略奪しているのですから、民主主義の基盤である国民の同質性も破壊されているわけです。
──現在直面している「歴史の危機」は、単に経済が低迷するだけでは済まないということですね。
 ええ。中世を襲った「歴史の危機」も、封建制システムだけが変化したのではありません。同時に、教会をトップとするキリスト教社会が崩壊して、主権国家のシステムができあがりました。
 それを考えれば、資本主義が終わるならば、主権国家システムも別のシステムに転換せざるをえないのでしょうが、現状を見ると、主権国家や民主主義のほうが大きなダメージを受けているように感じます。このままだと資本主義が終わる前に、主権国家や民主主義が終わってしまいそうです。
「定常状態」を実現するために
──資本と国家の関係について、本書では「今や資本が主人で、国家が奉公人のような関係です」と書かれていますが、そうなると、国家がグローバル資本主義に歯止めをかけるのは難しいのではないでしょうか。
 おっしゃるように、グローバル資本主義のもとでは、マルクスの『共産党宣言』とはまったく逆に、万国の資本家が簡単に団結します。それは、資本というものが最も容易に国境を超えるものだからです。一方、国家や労働者はなかなか団結することはできません。EUは、国家の規模を大きくしてグローバル資本主義に対抗しようとしましたが、EU危機で苦難に直面しているということは、まだグローバル企業に比して非力だということです。
 じゃあ、どうすればいいでしょうか。世界の労働者がネットワーク化して、グローバル資本主義に対抗することは現実的には難しいと思います。そうなると、取りうる選択肢としてはG20が連帯して、グローバル企業に対抗するということになるんじゃないでしょうか。
 具体的にはG20で連帯して、法人税の引き下げ競争に歯止めをかけたり、国際的な金融取引に課税するトービン税のような仕組みを導入することが考えられます。
──それすらも現状では難しいように感じます。そういった国家間の協調なり連帯ができない場合は、どうすればいいでしょう?
 日本にかぎっていえば、できるだけ早く「定常状態」を実現することが最優先の課題だと思います。
「定常状態」とはゼロ成長社会のことで、GDPが一定で推移するような社会のことです。ゼロ成長社会では、純投資(純粋な新規資金の調達でおこなわれる投資)がないわけですから、経済は買い替えだけで循環するということです。
 利潤が得られない状況で成長を求めるということは、どこかに相当な無理を押しつけているということでしょう。そんな現在、バブルが崩壊すれば莫大な債務を抱え込むことになり、バブル以前に比べて経済は大きく後退してしまうのです。
 日本の土地バブルが崩壊してから現在まで、政府は量的緩和や積極財政を繰り返してきました。しかし、景気は一時的に回復しても、雇用や賃金は減少する一方です。結局、成長政策をとった結果、一〇〇〇兆円という巨額の国家債務だけがつくられていったのです。
──逆説的なことに、成長戦略をとるとマイナス成長になってしまう。だから「定常状態」を実現することだって至難の業だ、とおっしゃっていますね。
 そこがよく勘違いされるところなんですね。ゼロ成長がいいんだというと、みんなが貧しくなるようなイメージで受け取られるんですが、大きな誤解です。余剰を無理やり溜め込み再投資するのではなく、生産したものをシェアしながら享受するのですから、豊かさを取り戻すことになると思います。
 では、どうしたら「定常状態」を実現できるでしょうか。一〇〇〇兆円の借金を放置し、グローバル資本主義に飲み込まれたままでは、マイナス成長社会、つまり貧困社会になってしまいます。現に日本はそうなりつつある。
 ゼロ成長を維持するためには、借金を均衡させ、資源価格の高騰で影響を受けないような安いエネルギーを国内でつくりだすことが求められます。だから非常に高度な構想力が必要とされるんです。
 日本はいま、ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレですから、「定常状態」の必要条件は満たしています。そのアドバンテージがあるにもかかわらず、成長主義にとらわれてしまっているがために後退を余儀なくされているのです。
──「定常状態」を実現するためには、近代資本主義の理念である「より速く、より遠くへ、より合理的に」から「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じることが重要だとも指摘しています。これは、具体的にはどういうことでしょうか。
「より速く、より遠くへ、より合理的に」行動するということは、利潤の極大化をめざすということです。それを逆回転させることで、できるだけ利潤がつくられないようにすることが重要です。
 ですから「よりゆっくり」とは、時間に追われない生活をしたり物事をじっくり考えたりすることに価値を認めることだと思います。「タイム・イズ・マネー」というように、時間と利子とは密接な関係がありますが、ゼロ金利ということは、時間に縛られる必要から解放されたということです。
「より近くへ」は、地理的なフロンティアはもう行き詰まっているわけですから、一国や地域単位で経済をまわしていくことです。
「より曖昧に」は、合理性や効率性だけで物事を判断してはいけないということだと思います。リーマン・ショックも福島第一原発の事故も、合理的であることを過信した結果、起きた出来事です。科学や論理を信奉しすぎたあまり、取り返しの付かないような危機を招いてしまったわけです。ですから、地球や自然に対して謙虚になるということが「より曖昧に」という姿勢につながるのではないでしょうか。
青春と読書「エッセイ」
2014年「青春と読書」4月号より
  
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160321憲法第 9 条について〜自衛隊の海外派遣をめぐる憲法的諸問題

「憲法第 9 条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認)について~自衛隊の海外派遣をめぐる憲法的諸問題」
に関する基礎的資料

平 成 1 5 年 6 月
衆議院憲法調査会事務局

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi033.pdf/$File/shukenshi033.pdf

2016年3月20日日曜日

160318毎日夕刊 続報真相 改憲急ぐ安倍首相を応援する人々 「美しい日本の憲法」とは

続報真相 改憲急ぐ安倍首相を応援する人々 「美しい日本の憲法」とは
毎日新聞 


「今こそ憲法改正を!1万人大会」にビデオメッセージで登場した安倍晋三首相=東京・日本武道館で2015年11月10日


「今こそ憲法改正を!1万人大会」にビデオメッセージで登場した安倍晋三首相=東京・日本武道館で2015年11月10日


 安倍晋三首相が憲法改正を「参院選で訴える」と前のめりだ。この姿に喝采を送るのが、改憲を支持する「安倍応援団」とも呼べる人たちだ。首相に近いとされる彼らがどんな憲法観を持っているのか、有権者は知っておくべきだろう。一般には知られていない発言などを掘り起こしてみた。【吉井理記】

神社本庁参加、初詣で賛成署名活動

 氷雨そぼ降る京都にいる。JR京都駅にほど近い新熊野神社(京都市東山区)は、後白河法皇が1160年に創建した由緒あるお社である。
 「とんでもない話です。神社や神職が改憲の署名集めだなんて」。強い口調で言うのは尾竹慶久宮司(65)その人。古い時代の神道に詳しく、2008年、神道と仏教の境がなかった明治期より前の「神仏習合」の古式にのっとった例大祭を140年ぶりに復活させたことでも著名だ。
 その矛先は、改憲推進団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」(国民の会)に全国8万社を傘下に置く宗教法人・神社本庁が参加し、各神社で改憲賛成の署名運動が行われていることに向けられている。初詣の際、署名を求められた人もいるだろう。
 「我々の職務は、参拝者に気持ちよくお参りをしていただく環境を整えることに尽きます。不快感を抱く人もいる改憲運動を持ち込むのは、神職の職務放棄、神社の私物化です」。新熊野神社は神社本庁傘下ではない独立神社だ。
 そもそも「国民の会」とは何か。
 設立は14年10月。共同代表はジャーナリストの桜井よしこ氏▽神社本庁も参加する保守系団体・日本会議の名誉会長で元最高裁長官の三好達氏▽日本会議会長で杏林大名誉教授の田久保忠衛氏の3人が務める。さらに代表発起人として長谷川三千子・埼玉大名誉教授▽作家の百田尚樹氏▽作曲家のすぎやまこういち氏ら安倍首相と親しい保守系文化人、その3氏も参加した「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」の裏方として奔走した文芸評論家の小川榮太郎氏▽神社本庁の田中恒清総長らが名を連ねる。昨年11月には日本武道館に約1万人を集め、早期の改憲を訴えるイベントを開いた。
 なぜ憲法を変えたいのか。
 まず神社本庁。明治期から敗戦まで、全国の神社を管轄した国家機関(最後は神祇院(じんぎいん))が敗戦後に解体され、事実上の後継として設立された。

 その主張は「大日本帝国憲法は、民主主義的で誇り得る、堂々たる立派な近代的憲法」「帝国憲法の原点に立ち戻り、現憲法と比べ、わが国の国体にふさわしくない条文や文言は改め、現憲法の良いものは残し置き……全文見直しを行うのが本筋の改憲のあり方」(神社本庁の政治団体・神道政治連盟発行誌「意」、14年5月15日号)として、憲法1条を改めて天皇を元首とするほか、戦力不保持を定めた9条2項、国の宗教的活動・教育を禁じた20条3項の削除・改正に主眼を置く。
 「明治政府は明治維新とともに、神仏分離令を出して仏教と切り分け、神道を作り変えた。学校教育の道徳・倫理や御真影(天皇、皇后の写真)を拝むことを通じて国教化を進めた。つまり国家神道で、国ぐるみの『教化』です」と尾竹さん。だが今は、国による教化がなく、氏子も減り神社の基盤が揺らいでいる。「神社本庁の一部には、神社存続のために、国家神道の仕組みに戻りたいという心情があるのでは」と見るのだ。
 ただ、15年11月23日付の専門紙「神社新報」の論説に「いまだ神社界にはなぜ神職が憲法改正の署名活動までやらねばならないのか、といった疑問を抱く人もいると聞く」とあるように、署名運動から距離を置く傘下神社も多いことは強調しておきたい。
 神社本庁の担当者は「他団体との関係もあり、神社本庁としての見解を述べるのは控えたい」と話している。

「現憲法が日本をダメに」は本当か

 「国民の会」の人々の言葉からは「今の憲法が日本をダメにした」との認識が色濃くうかがえる。
 例えば桜井氏。13年9月の講演をまとめた日本会議の機関誌「日本の息吹」(13年11月号)の記事「日本人をダメにする憲法」では、現憲法は権利と自由だけが強調され「日本人らしくない方向に人々を連れて行こうとする精神が憲法にある」と批判する。
 一方で「民主主義も男女平等も、一人一人を大事にするという福祉の思想も先進列強に教えられるまでもなく、わが国は太古の昔からこうした価値観を実践してきた国柄なのです。(中略)明治憲法も今読むと少しばかり古いところはあるが、根本の価値観は実に見事」(「日本の息吹」08年6月号、講演要旨)と明治憲法を高く評価している。
 三好氏も昨年3月の「国民の会」総会後の懇親会で「かの大戦で亡くなられた方々は俺たちは『こんな国』を続けさせるために死んだわけじゃないと嘆き悲しみ、怒りを持っておられると思う(中略)改憲は『こんな国』から脱却するための運動の一環だ」と訴えた。
 民族派団体「一水会」創設者で作家の鈴木邦男さん(72)は「保守の人たちは昔からの知り合い。批判はしたくないんだが」と苦笑しながらも「僕らも昔は『現憲法は諸悪の根源』と思っていた。僕はかつては明治憲法復元の立場でね。憲法を変えればすべてが良くなる、と。でもそれは違う。現実離れした観念に過ぎません」と距離を置く。「頭から『現憲法や護憲は悪』を前提にすると冷静かつ現実的な議論はできない。本当にそう言い切れるのか。右翼運動を続けてきたからこそ分かったんです」
 かつて改憲を叫ぶタカ派憲法学者として名をはせた慶応大名誉教授、小林節さん(66)も「現憲法で社会が悪くなったという客観的なデータはあるのか。明治憲法は天皇主権で、人権や自由は法で認める範囲しか与えられなかった。男女平等条項も女性参政権も戦後までなかったんだ。どう見ても現憲法下のほうが良い社会。そんな憲法観で改憲しちゃいかん」と手厳しい。


新憲法案を賛成多数で可決する衆議院。「押し付け」と言われるが、国会論議で多数の追加・修正が加えられた。採決したのも戦後初の自由選挙で国民が選んだ議員たちだ=1946年8月24日
新憲法案を賛成多数で可決する衆議院。「押し付け」と言われるが、国会論議で多数の追加・修正が加えられた。採決したのも戦後初の自由選挙で国民が選んだ議員たちだ=1946年8月24日

 もう一つ「国民の会」が挙げるのは「現在の憲法は占領期にGHQ(連合国軍総司令部)に押し付けられた『占領憲法』」(同会作製のリーフレット)だからという点で、安倍首相も繰り返し強調するのだが、小林さんは首を振る。「日本側が明治憲法の焼き直ししか作れなかったから占領軍が起草したんです。形式的には『押し付け』だが、それは旧体制の支配層に対してであって、国民とは別だ。主権者たる国民はこの憲法を受け入れたんですから」
 戦後、日本は海外で戦争をせず、豊かになり、東日本大震災や阪神大震災では被災者が助け合い、さらに日本中から老若男女がボランティアとして駆けつける社会を作った。それでも「日本人をダメにした」「こんな国」なのか。保守派が好む「自虐」という言葉が思い浮かぶ。

溝口敦さん「不注意で視聴者の会賛同」

 最後に意外な人物に登場してもらおう。暴力団問題に詳しいジャーナリスト、溝口敦さん(73)である。
 「国民の会」代表発起人でもある小川氏やすぎやま氏らが呼びかけ人となり、「公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体」として昨年設立した「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」の賛同者に名前を連ね、多くの人を驚かせた。呼びかけ人の7人全員が、安倍氏と近かったり、改憲を支持したりしている人たちだったからだ。
 すぎやま氏は毎年、100万〜150万円を安倍首相の政治資金団体に寄付。小川氏は12年に安倍首相再登板を求める著書を出版し、同年10月には自身主宰の私塾と、当時自民党総裁だった安倍首相の事務所とで懇親会を開いた仲だ。ちなみに首相側はこの時「会合費」として約22万6000円を支出している。
 「視聴者の会」のホームページを見ると「特定の政治的主張は持っていません」と記しながらも、「問題報道」としているのは安倍首相の政策を批判的に報じた番組や、キャスターのコメントがほとんどだ。一部全国紙に「私達は、違法な報道を見逃しません」などとする意見広告も出している。
 溝口さんに真意を尋ねると「不注意でした」と意外な答えが返ってきた。「『放送法遵守』というから、どういう人たちが作った団体か確認せずに『賛同する』としてしまったんです」。昨秋、前触れなく届いた封書に記入し、返送しただけだという。
 改めて自身の意見を聞くと、こう語るのだ。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ。もっと批判しなきゃ。キャスターが特定の立場で批判的発言をしたっていいじゃないですか。放送法1条は放送の自律の保障をうたっている。これが前提です。高市早苗総務相の『停波』発言はそれこそナンセンス。真実と自律を保障する放送法を盾に、政治権力と戦わなきゃ」
 溝口さんは同会に寄せたメッセージで「民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います」と記していた。改憲論議についても同じことが言えるだろう。

160317毎日新聞「民主・維新・共産・生活・社民」VS「自民・公明」 「野合」って何ですか?

「民主・維新・共産・生活・社民」VS「自民・公明」 「野合」って何ですか?

毎日新聞 
http://mainichi.jp/articles/20160317/dde/012/010/003000c

シールズの奥田愛基さん(右端)と、安保関連法廃止と選挙協力で野党共闘をアピールする4党幹部=東京・JR新宿駅東口前で13日
シールズの奥田愛基さん(右端)と、安保関連法廃止と選挙協力で野党共闘をアピールする4党幹部=東京・JR新宿駅東口前で13日

 安倍晋三政権を支える自民党の野党批判がとまらない。民主と維新の合流新党は「理念なき野合」、参院選に向けた野党5党の統一候補は「選挙談合」と。野党が一致して求めるのは安全保障関連法の廃止だが、これを理念や政策と認めない姿勢だ。そこまで言うなら問い返したい。与党の自民と公明はどうなのか。そもそも野合って何ですか?【堀山明子】
 「野党は共闘」「選挙に行こう」。日曜日の13日、買い物客でごった返す東京・新宿駅東口で、野党4党のゲストスピーカーを招いた集会でラップ調の軽妙なコールが響いた。マイクを握るのは、昨年夏の安保法案に反対する国会前デモで注目された大学生グループ「SEALDs(シールズ)」の奥田愛基さん(23)。「市民が野党共闘を呼びかけても無理だって言われたけど、でも、できちゃった。新しい政治をつくろう」。野党5党が安保関連法廃止と選挙協力を確認した2月19日の合意は、市民団体が動かしたという自負が言葉ににじんでいた。
 これに野党の側も呼応した。登壇した維新の初鹿明博国対委員長代理が「維新の寿命はあと2週間。政党名なんかどうでもいい。大切なのは、まとまって安倍政権を倒すことだ」と民主党と合流する新党の意義を訴えると拍手がわいた。ちょうど土日、新党名を決める世論調査が行われている最中だったが、両党本部のまとまらない議論には触れず、すでに新党が結成されたかのような口ぶりだ。共産党の志位和夫委員長は「野党共闘は皆さんの声に押されてここまで来た」と市民運動あってこその共闘と力説した。
 実際、シールズなど安保関連法に反対した5団体は昨年12月に「市民連合」を結成して以来、野党共闘を各党に働きかけるだけでなく、統一候補擁立にも直接かかわってきた。この日の集会は市民連合に加わった団体が主催し、3500人(主催者発表)が参加した。プラカードは「立憲民主主義を守れ」など、安保関連法反対を機に始まった標語が目立つ。昨年夏と違って新しいのは「Go Vote(選挙に行こう)」だ。
 茨城県古河市から高校1年生の娘と2人で集会に初参加し、「Go Vote」の紙を手に演説を聴いていた女性会社員(39)は「国会前デモに参加したことがなかったので、集会を一度見てみたかった。民主党の政権交代より今のほうが、市民が主体で政治を変えなければという気持ちの高揚がある」と語った。

 シールズ関西のメンバーで関西学院大学4年の寺田ともかさん(22)は「国会前デモで訴えた国民の声がちゃんと届く政治にしたいという思いが、野党共闘への力になった。デモに抵抗がある人も選挙には行く。政党は党のプライドより国民の声を聴いて方針を決めてほしい」と語る。
 国会前デモから野党共闘支援運動へ、市民の声は脈々とつながっている。安倍政権に、その声は届いているのだろうか。

「民共合作」と批判するけれど…与党にも矛盾

 「野党統一候補=民共合作候補」。今月作成された自民党広報ビラにはこんな見出しが赤字で強調され、野党共闘は「『理念なき民主党』と『革命勢力・共産党』の打算、選挙談合以外の何ものでもありません」と解説する。「民共合作」は、日中戦争当時、抗日戦線での協力を優先し、対立していた中国の国民党と共産党が手を組んだ「国共合作」に絡めて皮肉った表現だ。安倍首相も「民共合作」という表現こそ使わなかったが、13日の自民党大会で「民共勢力との戦いになる」と野党共闘に加わる共産党の存在を際立たせてけん制した。
 また、自民党の谷垣禎一幹事長が「選挙のためだけに大同団結すると、野合のそしりは免れない」と語ったほか、参院選や衆院補選に向け動きが活発化している各選挙区でも、候補者一本化を図る野党に対し、与党側が「野合」のフレーズを使って批判するケースが目立つ。
 「政権が立憲主義をないがしろにする状況に危機感を持ち、野党共闘を求めた市民の存在が見えていない。『民共合作』なんて聞くと、やはり安倍政権は聞く耳がないのだと腹が立ちます。保育園に落ちたママの声を当初は無視したのと、根っこは同じ」と話すのは、熊本県の「安保関連法に反対するパパママの会」共同代表を務める滝本知加さん(33)だ。
 参院熊本選挙区では昨年12月、全国に先駆け、市民が擁立する形で野党統一候補が決まった。「利害が対立し話し合いができなかった政党や労組を市民が橋渡しし、連携できる状況をつくった」と言う。
 野合批判に対し「市民連合」で中心的役割を果たす上智大の中野晃一教授(政治学)は「憲法9条堅持、自衛隊の国際貢献は加憲で慎重に検討するという公明が、解釈改憲で米国の戦争に協力しようとする自民党と連立することこそ野合ではないか。自公に比べれば、野党共闘は国家権力の暴走を止める方向性では一致している」と指摘する。「民共合作」との批判には「国共合作の抵抗に遭った大日本帝国は戦争に負けた。その歴史を分かっていて自民は使っているんですかね」。

「安保法制廃止」一致で十分、風頼みには危うさ

 そもそも野合とは何か。野合でない政党協力はどこにあるのだろうか。
 「国会共闘、民意をつかむ参院選、政権選択を行う衆院選……政党協力にはさまざまなレベルがあり、それに見合った政策の合意ができているかが重要。優先順位の低い政策の違いをあげつらって野合と批判するなら、すべての政党協力が野合になってしまう」。現代日本政治論専攻の一橋大学の中北浩爾教授はこう話し、次期参院選の野党共闘に関しては「政権選択選挙ではないので、安保関連法の廃止が焦点であるならば、それ以外の合意は必要ない」として妥当だと見る。
 ただし、民主と維新の新党は「党を支える党員や労組などを差し置いて世論調査で党名を決めるのは、持続可能性という点で問題がある。世論や市民運動との対話は必要だが、振り回されすぎてもいけない」と風頼みの姿勢を懸念する。さらに「参院選で与党が改憲に必要な3分の2議席を得る可能性を視野に入れれば、新党の綱領は現行憲法の内容をきちんと評価する必要がある。『立憲主義を守る』だけでは、安倍政権が憲法の手続きにのっとって改正を試みた時、党内に亀裂が生じかねない」と疑問を投げかける。
 自公協力も安泰ではない。「創価学会の研究」の著者で首都大学東京の玉野和志教授(社会学)は「公明党の支持基盤である創価学会は、グローバル企業に勤め安倍政権を支持するエリート層と、平和主義や福祉を重視する伝統的な庶民層に分かれる。エリート層が成長神話をけん引して目標になっているうちは自民党と結びつく動機があるが、安倍政権が格差社会の底辺を切り捨てた時、神話は崩れ、政党協力の組み合わせが変わる可能性はある」と指摘。憲法と安保関連法が争点となる参院選では「安倍政権に批判的な庶民層の反応が鈍く、熱心に自民候補を応援しない選挙区も出るだろう」と語る。
 不毛な議論にかまけている余裕はない。「野合ですが、それが何か?」−−。与野党党首の皆さん、そう開き直ってはいかが。

160319「国が、国は、国側???」

「国が、国は、国側???」=詐術にすぎぬ言い方 。騙(だま)し、騙されるわが日本人、哀れで愚か。
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/dcbc02e50994a4b0a7a9bf396df502a2

 毎日毎日、ニュースや社会解説番組で、何百回も繰り返される「国は」「国対住民」「国側勝訴・敗訴」、国、国、国。

 ここまでウソというより詐術の言葉を繰り返すマスコミ関係者、あるいは、評論家は、【国語科の学習・社会科の学習】の内容を身に付けているのでしょうか?大学入学試験に合格しても何も分からない=丸覚えとパターンの刷り込みだけで、ほんとうのことは何も知らない人だらけのようですね。もしそうでないなら、明治維新の末裔(主に長州藩の下級武士たち)とその従属者である今の政府関係たちに脅されて、あるいは誘導されてそう言っているのでしょうか?
 国は、ではなく、 政府は、あるいは官邸は、であり、または、通産省が、財務省が、文科省が、です。いまの政府の意思に過ぎないものを、国は、という。いまの官邸の意向でしかないものを、国が、という。官僚たちの集合意志=惰性態でしかないものを、国側は、という。
 現在の日本国は、主権者を市民=国民とする民主政なのではないのですか(憲法第一条にある通り、天皇は象徴であり、その地位は、主権の存する日本国民の意志に基づくのです)。
 明治天皇所持の伊藤博文の写真(宮内庁が公表)
憲法作成者の伊藤博文は、大日本帝国憲法は、天皇から恩寵として臣民に与えられるものであり、「主権が国民に変わることは永久にない」と教説)


 無条件降伏による敗戦までの明治憲法(大日本帝国憲法)では、主権は天皇にあったのですから、民主政の前提でる「人民主権」とは異なりましたが、現憲法では、主権者(国家権力の源泉)は、わたしやあなた=国民にあるのです。小学校の教科書に記載されている通りです。これは、原理・原則です。明治以降の「天皇という名を利用した官僚政府」にあるのではありません。
 主権者を天皇から国民への大転回をはたしてから70年経ちますが、いまだに、政府や官邸の意思を、国の意思だと言う!!!????もう、これは、低脳か詐欺のどちらでしかありません。「上官の命令は国イコール天皇の命令である」という戦前思想は終わったのではないのでしょうか。
 きちんと言葉を使わないで、政府・官邸の意思や官僚組織の都合のことを「国」と呼んだのでは、政府批判も官僚批判もできなくなります。「おい、お前、【国】に逆らう気かなのか!」(これは、自民党の桜田衆議院議員が、我孫子の一市民にみなの前で言った言葉です)。
 国という言葉には、大きく3つの意味があります。わざとごちゃ混ぜにして、政府の方針への批判をしにくくする詐術はもういい加減にやめなければいけません。
国の主人公は、わたしでありあなたです。国は、わたしとあなたの意思とお金を出し合ってつくるものです(それが「社会契約」の意味本質)。わたしとあなた=公共の意思とは別に国家権力があり、公共の意思に逆らう国家権力がある、というのならば、言うまでもなくその権力は正当性を持ちません。

それにしても、ある特定の考え方や政策を、「国」の方針だと言い、まるで、国という生物あるいは物体が存在するかのように錯覚させるというのは、北朝鮮も真っ青な恐るべき詐術というほかありません。
  マスコミ関係者や官僚政府のみなさん、これからもまだ詐欺の言葉を使い続けるのですか? もし良心があるなら、変えなさい。

武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員=日本国憲法の哲学的土台を講義)

 ☆簡潔なまとめを記します。
  主権者を人民(民衆・民・市民・国民)とする社会を民主政社会とよびますが、民主政社会における国(国家)とは、主権者であるあなたやわたしの意思(これを「一般意思」といいます)により、つくるシステム(制度・組織・体系・体制)のことであり、それ以外ではありません。...
 政治レベルで話題となる「国」または「国家」というのは、自立した一人ひとりの考え(一般意思)とお金(税金)によりつくるシステムのことです。国という実体がどこかにあるのではなく、国とはシステムのことで、それ以外ではありません。
 政治レベルの話とは異なる、言語とか歴史とか生活習慣という意味での国は、ネーションであり、それは文化的レベルでの話です。また、故郷という意味での国は、カントリーで、気候風土など自然レベルの話です。
 政治レベルにおては、責任の所在を明確にすることが何より重要ですから、きちんと、政府は、官邸は、○○省では、と言わなくてはいけないのです。国は、という曖昧な言い方は、騙しの言語にしかなりませんし、問題の所在を不分明にする詐術になります。それは犯罪行為とさえ言えます。心しましょう。
 政治レベルの話でしかないもの=国のありようについての特定の見方や主張や解釈に、文化や風土レベルの話ダブらせて、まるで日本という実体(物)が存在するかのように思わせるというのは、極めて悪質な占脳ー染脳です。それにより、人々の自由な意識を縛り、特定のニッポン主義の思想に気づかれぬように誘導するわけです。
 これは、明治の維新政府以来続く日本の悪しき「伝統」で、国体思想とよびますが、まさにシステムを実体化させてしまうのですから、「国体」です。政治的なレベルの国(政府の思想)が、体になり固定化されて惰性態となるのです。個々人の自由を元から奪う恐ろしい思想です。

武田康弘