2017年1月7日土曜日

宇沢経済学の根底にある「人間尊重」とは何か

宇沢経済学の根底にある「人間尊重」とは何か
「知の巨人」宇沢弘文先生の業績
2016年12月24日

http://toyokeizai.net/articles/-/151187?display=b

本書『宇沢弘文 傑作論文全ファイル』は、故宇沢弘文先生の研究生活の後半40年にわたる代表的な論文をひとつの形にまとめたものである。宇沢先生のノートパソコンに入っていた2000以上もの論稿を、コロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授、京都大学の松下和夫名誉教授、国連大学の竹本和彦所長、帝京大学の小島寛之教授など、多くの関係者の協力を得て編集したという。

「知の巨人」宇沢先生の業績と、今日のグローバル社会における意義を正しく理解することは容易ではない。宇沢先生の活動は、数学の研究者から転じて数理経済学で業績を上げ、後に経済学を実社会の幅広い問題解決に適用することに注力し、更にその中心に「人間」を置いたことで、思想的・哲学的な大きな広がりを持っている。本書の目次を見ても、「自動車」「環境」「医療」「教育」「農村」など、その研究対象は極めて広範囲に及んでいる。

宇沢経済学の根底にある人間尊重

「日本人で最もノーベル経済学賞に近い」と言われながら、自らがかつて教授を務めたシカゴ大学を中心とする主流派経済学を批判してグローバリズムと新自由主義への警鐘を鳴らし、新しい学問分野の構築を目指して精力的に活動されたが、道半ばにして2014年に逝去された。

宇沢先生が提唱した最も重要な概念が「社会的共通資本」(Social Common Capital)である。これは、森林・大気・水道・教育・報道・公園・病院といった公共に必要不可欠な社会的資本を示す概念で、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する」(『社会的共通資本』)と定義されるように、単なる社会資本を超えた意味合いを持っている。

より具体的に説明すると、社会的共通資本は、①自然環境(山、森林、川、湖沼、湿地帯、海洋、水、土壌、大気)、②社会的インフラ(道路、橋、鉄道、上・下水道、電力・ガス)、③制度資本(教育、医療、金融、司法、文化)の三つに分けられる。そして、それらに属する全てのものは、国家的に管理されたり、利潤追求の対象として市場に委ねられたりしてはならず、それぞれの社会的共通資本に関わる職業的専門化集団によって、専門的知見と職業的倫理観に基づき管理・運営されなければならないとされる。

更に、その管理の形態として、 宇沢先生は「コモンズ」 (Commons)という考え方を提起する。 コモンズは必ずしも特定の組織や形態を持つものではなく、例えば、 明治時代までは各村にあった、村が経済的に自立するための重要な施設であり、村長が中心になって管理する溜池潅漑のように、ある特定の人々の集団が集まって、社会的共通資本としての機能を十分生かせるように協同的に管理や運営をしていくものである。

そして、この宇沢経済学の根底にあるのは「人間尊重」である。この言葉を深く受け止めないと、成田闘争にシンパシーを示したことなどから、「宇沢弘文は左翼だ」とかいう話になってしまうのだが、宇沢先生はそうしたイデオロギー先行ではなく、経済学者として数理的にも整合した人間中心の経済学を構築しようと努力していたのである。

昭和天皇のお言葉が転機をもたらす

宇沢先生の『経済学は人びとを幸福にできるか』(『経済学と人間の心』の新装版)の中に、1983年に文化功労者に選ばれ、宮中に招かれて昭和天皇に経済学のレクチャーを申し上げた際に、天皇から「君!君は、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」というお言葉を賜ったエピソードを披露している。そして、これが宇沢先生にとって大きな転機をもたらすことになったとして、次のように書いている。

「昭和天皇のこのお言葉は、私にとってまさに青天霹靂の驚きであった。私はそれまで、経済学の考え方になんとかして、人間の心を持ち込むことに苦労していた。しかし、経済学の基本的な考え方はもともと、経済を人間の心から切り離して、経済現象の間に存在する経済の鉄則、その運動法則を求めるものであった。経済学に人間の心を持ち込むことはいわば、タブーとされていた。私はその点について多少欺瞞的なかたちで曖昧にしていた。社会的共通資本の考え方についても、その点、不完全なままになってしまっていたのである。この、私がいちばん心を悩ましていた問題に対して、「君!君は、経済というけど、人間の心が大事だと言いたいのだね」という昭和天皇のお言葉は、私にとってコペルニクス的転回ともいうべき一つの大きな転機を意味していた」

こうした宇沢先生の人間中心の思想は、『経済学は人びとを幸福にできるか』の冒頭の、池上彰氏による「『人間のための経済学』を追究する学者・宇沢弘文」という解説に端的に表現しているので、そのまま抜粋しておく。

「経済学は、何のための学問か。人を幸せにする学問ではないか。人を幸せにするためには富の創造・蓄積が必要だが、それに傾注していると、いつしか当初の目的から逸脱して、人々を不幸にすることもある。人々を幸福に少しでも近づけるために、経済学の理論はどう構築されるべきなのか。これを生涯にわたって追究してきたのが、宇沢弘文氏です。若い頃経済学をかじり、いま大学で経済学の基礎を学生に講義している私にとって、宇沢氏の学問に向き合う誠実な態度は、常に導きの星でした」

そして、宇沢先生は、ジョン・デューイが唱えたリベラリズムの観点から、市場による支配(新自由主義的な資本主義)と国家による支配(社会主義、共産主義)の両方を否定し、「資本主義、社会主義のどちらの考え方も、一人一人の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保するという要請をみたしてはいません・・・どちらの考え方も、一つの国あるいは社会のもっている歴史的条件を無視し、その文化的、社会的特質を切り捨てて、自然環境に対してなんらの考慮を払わないという点で共通したものをもっています」と述べている。

それなら第三の道は、あるのか?

宇沢先生が提示する第三の道は、ソースティン・ヴェブレンが唱えた制度主義である。「社会的共通資本」という概念も、元々、このヴェブレンの制度主義に端を発しており、宇沢先生自身、『社会的共通資本』の中で、次のように述べている。

「制度主義は、資本主義と社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現しようとするものである。制度主義の考え方はもともと、ソースティン・ヴェブレンが、十九世紀の終わりに唱えたものであるが、百年以上も経った現在にそのまま適応される。社会的共通資本は、その制度主義の考え方を具体的な形で表現したもので、二十一世紀を象徴するものであるといってもよい」

宇沢先生は、1991年にローマ法王ヨハネ・パウロ二世の要請に応じて、ローマ法王が100年に一度出す「レールム・ノヴァルム」という回勅のアドバイザーとしてバチカンに招かれたことがある。

最初の「レールム・ノヴァルム」は、1891年5月15日に「レールム・ノヴァルム 資本主義の弊害と社会主義の幻想」(Rerum Novarum - Abuses of Capitalism and Illusions of Socialism)という題でローマ法王レオ十三世が出した回勅で、行き過ぎた資本主義によって労働者や一般庶民は無神論的唯物史観の社会主義(共産主義)への移行を望んでいるが、それは幻想に過ぎないとした。これは、カトリック教会が社会問題について取り組むべきことを指示した初の回勅であった。

これに対して、宇沢先生の進言を受けて1991年5月1日にローマ法王ヨハネ・パウロ二世が出した回勅は、「新しいレールム・ノヴァルム 社会主義の弊害と資本主義の幻想」(New Rerum Novarum - Abuses of Socialism and Illusions of Capitalism)というもので、共産主義の弊害が明らかになった冷戦末期において、行き過ぎた資本主義の幻想に対して警告を発したものであり、社会主義と資本主義の二つの経済体制の枠組みを超えて、新しい世紀への展望を開こうというものである。そして、この直後の1991年8月にソビエト連邦で8月革命が起こり、共産党は崩壊することになるのである。(『始まっている未来 新しい経済学は可能か』内橋克人、宇沢弘文)

このように、宇沢先生の経済学は、資本主義と社会主義の両方の限界を乗り越えようとする学問的且つ実践的な試みであり、主流派から外れた経済学者が、その後半に左がかった思想に振れていったなどという浅薄なものでは決してない。

日本の大学には引き継がれなかった、宇沢先生の教え

ところが、その後、東大を始めとした日本の大学では、残念ながら宇沢学派のような形では後継は育たなかった。経済評論家の池田信夫氏がブログで何度か宇沢先生についてコメントしているが、それは宇沢経済学を継承しようという立場からではなく、宇沢先生が日本の経済学を世界の主流から遠ざけた原因であるとか、宇沢経済学は農本主義であるといった批判的な立場からの論評であり、これを肯定的に発展させようという経済学者は今のところいない。

宇沢先生は1968年に東京大学経済学部に助教授として戻り、翌年教授に就任し、1989年に退官された。その間、吉川洋先生、清滝信宏先生、岩井克人先生などが宇沢ゼミ出身だったようだが、この中で宇沢先生の思想的影響を一番受けているのは、岩井先生ではないかと思う。

岩井先生の研究も内外の大学を通じて多岐にわたっているが、近年では株式会社のガバナンス研究に注力している。この中で、岩井先生は、会社と会社の経営者を人形浄瑠璃の人形と人形使いとの関係になぞらえて説明している。つまり、経営者(人形使い)は株主の代理人ではなく、会社(人形)の信任の受託者であり、この信任関係を維持するために、一方の当事者には、自己利益追求を抑えて他方の当事者の利益にのみ忠実に仕事をすべしという忠実義務が課されることになるというのである。

岩井先生の言う、会社の信任の受託者としての経営者に求められる「職業倫理」は、実は医師や弁護士などの専門家(プロフェッショナル)の世界では、当然に求められているものである。そして、この背景にあるのが、「ヒポクラテスの誓い」(The Oath of Hippocrates)の考え方である。

ヒポクラテスは紀元前5世紀にエーゲ海のコス島に生まれたギリシャの医者で、それまでの呪術的医療と異なり、健康・病気を自然の現象と考え、科学に基づく医学の基礎を作ったことで「医学の祖」と称されている。彼の弟子たちによって編纂された『ヒポクラテス全集』の中にある、医師の倫理・任務などについてのギリシャ神への宣誓文が「ヒポクラテスの誓い」である。そして、宇沢先生の言う「社会的共通資本に関わる職業的専門化集団」の倫理・任務というのが、この「ヒポクラテスの誓い」をたてた医師と同じ文脈で語られているのである。

更に、海外での最強の応援団がコロンビア大学のジョセフ・E・スティグリッツ教授である。ノーベル経済学賞受賞者であるスティグリッツ教授は、 1965年から1966年にかけて、宇沢先生の在籍したシカゴ大学において、宇沢先生の下で研究を行っていた。

スティグリッツ教授も宇沢先生と同様に、『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』(Rewriting the Rules of the American Economy)など多くの著作で、現在の行き過ぎたグローバル資本主義のあり方に警鐘を鳴らしている。

人間と地球のために、経済学者は何をすべきか

2016年3月には、宇沢先生の長女で医師の占部まり氏が主催する宇沢国際学館による宇沢弘文教授メモリアルシンポジウム「人間と地球のための経済 経済学は救いとなるか?」が青山の国連大学で開催され、そこでの基調講演をスティグリッツ教授が行なうなど、世代を超えて両者の交流は今も続いている。

スティグリッツ教授は、本書の前書きにも寄稿している。その「宇沢先生が生涯をかけて教えてくれたこと 人間と地球のために経済学者は何をすべきか」には、以下のように書かれていて、ここに宇沢先生の思想が脈々と受け継がれているように思う。

「これ以上の経済成長は必要ないという人もいますが、あえて申し上げると、継続的な成長は必要です。それは世界人口の半分に当たる、貧困からようやく抜け出そうとしている層の人たちが必要最小限の生活水準に達するまでの成長が必要だから、というのが理由です。とはいえ、永久に成長し続ける必要はありませんし、成長は現在よりはるかに小さな環境負荷で成し遂げられると思います。ただし、そのような形で成長を実現するには、従来とは根本的に異なる構造が必要になるでしょう。ここで問題になってくるのは、生活の質ということです」

「伝統的な経済学では人の選好は生まれたときから決まっており、それ以外のどこからも発生するものではないという前提を置いてきました。ところが実際には固定化された選好を持って生まれてくる人間などいませんし、選好は後天的に形作られるものです。それは私たちが所属する社会によって形作られ、またどのように形作るかは自分たちで決めることができるのです。そのように選好は内生的であるという事実は、幸福についての奥深い問題を提起します。伝統的な経済学はそうした問題を避けようとしています。これまでの取り組みはパレート最適の概念を活用したものでした。それは固定化した選好を持った人々をひとかたまりにして、その人たちの幸福度を最大化しようという取り組みです」

宇沢先生の単著をいきなり読み出すとかなり難しく感じると思うので、宇沢先生の著作に常に伴走してきた岩波書店の名編集者・大塚信一氏の『宇沢弘文のメッセージ』と本書を合わせて読めば、かなり理解は深まると思う。宇沢先生の人間中心の経済学が今後ともできるだけ多くの人に届くよう願っている。

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