2016年10月11日火曜日

第1回 イラク戦争公聴会 柳沢協二氏の証言・意見陳述

第1回 イラク戦争公聴会 柳沢協二氏の証言・意見陳述

【日時】2016 年 5 月 13 日(火)午後3時〜
【会場】衆議院第一議員会館・国際会議室
・柳沢協二氏(元内閣官房副長官補)の証言・意見陳述

http://www.iraqwarinquiry.net/publichearing


こんにちは、柳澤です。2004 年に官邸に行って 2009 年の麻生政権の最後まで5
年半、安全保障担当の事務方トップとしておりました。前半小泉政権の2年半
というのは陸上自衛隊のイラク派遣、さらに航空自衛隊の活動がその後1年半
続くわけですけれど、私にとって非常に大きなウェイトを占めているテーマでした。


さきほど(イラク派遣を)軍事作戦だと。そうなんです。軍事作戦というのはそれをやらせようとする政治の意思があって、それを幕僚が支え、そして部隊が活動するという。決してサマワに行った部隊だけの話ではないわけですね。
そのなかのひとつの Piece。Piece といっても自分ながら重要な Piece だったと私自身は思っているんですが。


政治の方々は部隊の現状、ま、軍事作戦と言おうがいうまいが、実態は一緒なので、リスクを含めて、事実を正しく認識していただかなきゃいけない。部隊のほうにはやたら勇ましくあっても困るし、やたら慎重であっても困る。政
治が何を求めているかという、そのへんの勘所を伝える政治と軍事のつなぎ目の役割を果たしてきた人間として、しかもやはりひとつの軍事作戦に深く関わってきた人間として、この問題をもう一度振り返って考え直さなきゃいけないと、ずっと現職の頃から思っていたんですね。


組織で働く人間たちは、当時でも、これなんか変だよなという意識をみんな共有してた。これなんか変だという意味は、自衛隊がやっていることがじゃなくて、アメリカのこのやり方は変だよなっていうのはみんな思ってた。この戦
争は本当に胸を張った合法な戦争なのかというのも含めて、そういう思いはあったんですね。


なんだけどそんなことを口にしたら仕事がはかどらない。だから、“アメリカの話で日本の話でないなら自分の責任であるわけがない”と。こういうある種の思考停止のなかで自分なりの判断をし、仕事をしていくわけですね。


だからそういところからは何も検証されないわけです。自分があのとき上手くやったかどうかということしか検証の対象にならないわけで、辞めてから“これはやっぱりやらなきゃいけない”と思ったんです。やりながらこれほど反日
米同盟に自分が変化していると思ってもいなかったもので、もっと素直に本当に何があったのかどうすべきだったのかということをしっかり検証しないと。

というのは、2008年末にイラクが政治的に独立を回復してイラク統治の安保理決議の期限が切れると、多国籍軍として活動していた航空自衛隊の根拠がなくなる。そうなると日本が自ら新生イラク政府と地位協定を結んで派遣し続けるか、さもなくば一緒に撤収するかと。


当然、撤収という選択しか当時なかったんですが、そうなると 30日以内に、最後の部隊が帰ってくるのが3月のどこかだったんですね、それから1ヶ月、4月の中旬くらいまでには国会に対して活動終了報告を出さなきゃいかんということになってました。


私のオフィスで起案したんですね。そのときに“人員何人を運びました”、“物資何トンを運びました”という報告は出たけれど、これでいいのかなと。なぜならイラク特措法延長のときの国会決議で、大量破壊兵器がなかったことをふまえて当時の日本政府の判断について、これが正しかったのかどうかという検証をしようと、そういう付帯決議があったわけですね。これがずっと私の記憶に残っていて、さあどうしたもんかと。淡々と「どこで何をやりました、のべ何人行きました、一人も死にませんでした」、これでいいのだろうかと。


そういう話をしても、「誰も何も言ってないしいいんじゃないんですかね」、「まあそうだね」、「いちいちそう面倒臭いことをやる必要もないよね」と、私自身は半分心残りではあったんですが、そういう雰囲気のほうが勝っていたのも事実です。


なにも辞めてまで国会の付帯決議にしばられることはないけど、自分としてなんとか振り返って自分のなかで決着をつけなきゃいけないと思ってたわけですから、辞めてからそれを始めていきました。


ただ、私はあのイラク戦争が始まったときは防衛研究所というところにおりまして、それを小泉総理が支持し、そしてイラク特措法を作って部隊を派遣するというプロセスを、実は私は外で見ていただけです。


だからこの『検証 官邸のイラク戦争』という本を書くときにそのへんの意思決定が全然私はわからないものですから、当時官邸にいた上司、先輩、同僚に、もちろんお名前を出さない前提でインタビューをさせていただくとか、あるいは当時の国会議事録を読むとか(しました)。


それから主な材料が新聞記事なんですが、新聞記事を時系列で並べて追っていくと、“あれ?なぜこの順番でこうなるの?”というところが(ありました)。


で、そこで問題意識がでてくるわけですね。そして足りない部分、あのとき誰がどう言ったの?みたいなところは、その場に立ってないとわからない、それは私はどっちかというと、なんていうか、別の人がほかの言い方をしたかもしれない。しかし結果として同じことになったのだろうと。

客観的なものごとの成り行きの論理を追うというほうが私のやり方としては筋が通っているなというふうに思いますし、また客観的な国益をはずした政治は出来ない。客観的な国益という幅のなかで自ずと制約される部分もあります。そういったところの本質をどうみていくかというところがポイントだと思ってやってました。


近くイギリスのチルコット委員会でレポートが出るという。であればそこに向けて日本の民間の検証作業というのも、一定の問題提起がぶつけていければそれなりに注目も浴びるだろうし。


戦争というものをどう定義するかにもよるんだけど、我々はイラク戦争そのものに、サダム•フセインのレジーム•チェンジの戦争に直接加担したというのではなくてそのあとの後始末に加担していたわけですね。


そこのところでおそらくブレア政権が対応しているのは前段の部分が多いと思うんですね、そういうところは日本が検証しようとしてもかなり困難はあるんでしょうという感じはします。そこに、特に自衛隊が出ていった以降の、そ
れ以前の政権が支持した話、あるいはその後の中東との日本の関わり、そんなところを検証のポイントにしていかれたらいいのではないかと思っています。


ついでにもう一つ言いますと、安保法制で盛り上がってる時期は落ち着いた検証の議論は難しかったかもしれない。しかし安保法制によって、今まで自衛隊は海外で弾を一発も撃ってないわけだけれども、今度は銃を武器を使わなければならない任務を与えられて、そして戦闘の当事者になっていく可能性がメチャクチャ高いわけですね、それにどう向き合っていくかってことをぜひ、私は防衛官僚であった人間としてね、そこをぜひ突っ込んいかなければならないと思っているんですね。


昨日、某所で聞いたのですが、アメリカで帰還兵の PTSD が問題になったのは実はベトナム戦争以降なんですね。それ以前はなぜ問題にならなかったかというと、私もそう思うんだけど、第二次大戦あるいは朝鮮戦争までは帰ってきた兵隊さんは英雄として国中から迎えられたわけですが、ベトナム戦争は帰ってくると国内の反戦の嵐のなかで非常に疎外されるわけですね。そういう体験、PTSD からの回復という意味では周囲の人間の受け止め方が敵意に満ちたものか、あるいは共感に満ちたものかによって非常に変わってくると、そういう文脈のなかでの話を聞いたんだけど、今そういう戦争の時代になっているということですね。もう第二次大戦のようなやみくもに都市の上に爆弾を落とす戦争というのは、つまり絨毯爆撃のようなことをもうやれなくなってきていると思うんですね。


しかし、別の形で戦争が行われているとして、それは何かというと、正義だとは受け止められない戦争をやらざるを得なくなってきているということですね。


殺していけば殺していくほど相手の恨みや復讐心が増幅されて、さらに無限の暴力の連鎖につながっていくというような、そういう戦争が、今我々の前に突きつけられていて、そういうことに手を出せるようにしているのが安保法制ということなんだけど、このまま行っちゃったら、たぶん殺して帰ってきた自衛隊員はどうするんでしょうか。本当に英雄として迎えられるんでしょうか。本当に中東で今やっていることが正義の戦いとして受け入れられるでしょうか。


ということを考えると、たぶん自衛隊が崩壊するかもしれない。軍隊が崩壊するということは日本社会が崩壊することにもつながるわけで、そういう観点で見続けなければいけないと私は思っています。


イラク戦争とはなんだったのかというレジメにしたがって議論のたたき台をご提示したいと思っています。冷戦が終わってアメリカが唯一の超大国として世界に君臨することになっていったんですが、そのときのアメリカの野望というのが、アメリカの価値観で世界を作り直すんだということだったと思います。


そういうアメリカの行動様式に反発するところからアルカイダが生まれて、9•
11のテロが起きるわけですね。これに対して翌年の一般教書演説でブッシュジュニア大統領はいわゆる“悪の枢軸演説”というのを行います。


悪の枢軸とは何かというと、アメリカに反対し、大量破壊兵器を保持するという2つの要件を満たしたもので、イラン、イラク、北朝鮮、をあげたわけですね。これは実は冷戦時代、ソビエト連邦というのを悪の帝国と呼んでいたわけですが、それに代わるアメリカの敵というふうに位置付けて、アメリカとともにあるのか、あちら側にあるのかという、そういう踏み絵を同盟国側に押し付けてきたわけですね。


9•11ですが、あれは大規模ではあるけれども”犯罪”であるわけで、それに対して”戦争”という選択肢をなぜ真っ先にもってきたのかというところが、超大国の政治のプロセスとしてしっかり検証されなければいけないことだと思うんです。


このときのアメリカというのは、湾岸戦争で国際社会の同意を得た上でサダム•
フセインのクウェート侵入を押し戻したという、軍事力によって簡単に戦争に勝ったという成功体験もあって、しかも自分がいまや唯一の超大国というのもあり、その地位を守りたいという願望があったんだと思います。


そして、今自分にとって一番頼れる強い力、それは軍事力ですから、軍事力への過信、そして唯一の超大国としての奢り、そういうものをネオコンが、ナショナリスティックというのはちょっと違うんですが、正当化する。そういう形で、つまり軍事となんらかの哲学的な裏付けとそしてそれを受け入れるその国のその時代における政治的な意識というものがあって戦争というものが選択されるということですね。


9•11に対して、ブッシュ大統領の回想録によると「これは戦争だ」と叫ぶわけですね。戦争じゃないだろうという声もあったのだろうと思うのですが、どの国にとってもそうですが、自分の国への攻撃は一番許せないことですから、これを力でやっつけなきゃいかんということになる。それによってアメリカ国民の支持が高まるわけですね。


「戦争を」ということは非常に国民の支持を集めやすいひとつの点で、しかも2千人以上が犠牲になるという事件が目の前にあったわけですから、それを利用したという言い方はたぶん違うので、その波にのって、そしてそのときアメリカの政治を覆っていたその雰囲気によって、戦争という形で処理しようとしたのだろうと思います。


そしてアフガニスタンに攻め込むわけですね。それに対して国連も安保理決議でこれを事実上容認することになるわけですが、アフガンの戦争は3ヶ月と書いてありますが、おもな戦闘は2ヶ月くらいだったのかもしれません。タリバン政権が倒されるという意味では非常に簡単に終わってしまう。しかしそれは抵抗の終わりではないという意味では戦争の終わりではなかったんです。


そういう非常に近視眼的な従来型の戦争の成功体験にのって、次はイラクだということになっていったわけですね。ではイラクの次にイランと北朝鮮もあるだろうか。私はそこまでの具体的な戦争プランはなく、イラクによって一罰百戒を示そうとしたのじゃないかと思います。


イラク戦争をどう正当化するかについて、アメリカの軍人が当時から言ってたのは、今までの国際法の基準からいうと違法ということなんですね。違法なんだけど、これはやるべき正しい戦争なんだ。Illegal but Legitimate の戦争であるという。


“国際法そのものが時代遅れになっている、テロリストが出てきて大量破壊兵器を隠し持っている時代、これは今までの国際法が通用しないんだ”ということで、国際法が通用しないなら実はなんでもありということになっちゃうんですけれども、それを端的な形で表していくのが 2002 年の9月にアメリカの国防方針いわゆるブッシュ•ドクトリンというものが出るわけですが、我々はこの時代に目の前にキノコ雲が現れるまで何もしないわけにはいかないんだと、むしろ先制的にそれに対して行動しなければいけないという先制攻撃のドクトリンを出すわけですね。


2003 年に戦争を始めて5月には空母の上でブッシュが勝利宣言をし、その後サダムフセインが見つかるのはその年の冬になってからだったと思います。そしてそれでイラクを占領すれば大量破壊兵器なんかすぐに見つかると思ったんですね。しかし見つからなかった。そしてその 1 年後くらいにアメリカ自身も大量破壊兵器はなかったということを公式に認めざるをえない状況になってきた。


では、それは嘘をついたのか、戦争するための嘘だったのかというのに対して、私はこのブッシュ大統領の回想録の表現というのはたぶんその通りだと思うのだけれど、彼はなんと言っているか。「嘘だったら大量破壊兵器がないなんてことは行ってみればわかることだろう、誰でもわかるような嘘はつかない。嘘をつくならもっと上手につくよ」ということですね。嘘をついたんじゃなくてみんなが間違えていただけなんだという。みんなが間違えていただけというなら、なぜ間違えたかを検証しなきゃいけないということになってくるのですが、なんというのでしょうか、政治の雰囲気というのがものすごく大きく影響すると思っています。


やはり全体として戦争はさけられないというワシントンの動きがどんどん進んでいくわけですね。戦争が避けられなければ気のきいた軍人はどうするか、戦争の準備をするわけですね。政治のほうもいざ決断したら戦争になるんだから何か足りないものは今のうちに十分なものを用意しておけということになってくる。


何が足りないか、何が一番怖いか、仮に戦争始めてサダム•フセインが大量破壊兵器を使って米軍を攻めてきたらそりゃあ困るよね、それじゃあその大量破壊兵器か化学兵器に対する防御とかね、そういう装備をそろえていかなきゃいけないね、ということが軍のほうでは進んでいく。


そして情報機関に対してはどの程度の能力があってどの程度の脅威があるのか、あるのかないのかはっきりさせろと。しかし情報機関はそれはないとは言えないけど確実にあるということも言えない。しかし、ないということも言えない。


そうするとやっぱりそれで攻められたら困るからそれに対する準備をするといううちに、あることがだんだん前提になっていくという。私はたぶんそういう情報と政策決定の相互作用というものが働いているんだろうというふうに思います。


その情報がうまく相互作用しなかったのがホルムズ海峡が閉ざされて半年石油がこなければ存立危機事態になるのではないかという。しかしそれはホルムズ海峡の外からパイプラインで石油積めるよとか、そういうなんというか、あれは嘘なのかもしれないんですけども、情報と政策決定というのは、本来政策決定者に警告を発するような情報の発し方もしていかなきゃいけないんだけど、どちらかというと政策決定者が喜ぶような情報を、そりゃあ人間の気持ちとしてそうだと思いますね、政策決定者のほうはいずれにしてもやろうと思っているわけですからね、そういう流れのなかでだんだんみんなが大量破壊兵器があると信じていくプロセスがあったんだろうと私は思います。


私も当時、何も根拠はないけど、(大量破壊兵器は)ないという根拠もないので、大量破壊兵器をサダム•フセインが持っているというふうに信じていました。


アメリカがもうひとつ言ってたのは、国連は安保理決議でイラクに警告をしている、しかしやつらは何も聞かないじゃないかって。つまり査察に応じないじゃないかということですね。やはりそういう無力な国連に代わって誰かが国連の権威のためにも力を使わなくっちゃいけないんだという論理が一本あったわけですね、これも私はそうだなと当時思っちゃったわけですね。


もうひとつ、私がインタビューした当時の関係者が口をそろえていうのが「大量破壊兵器はなかった。国際法的には乱暴だったかもしれないが、どっちにしてもサダム•フセインをやっつけたことは良かったんだ」と。なぜならあいつはクルド人を何千人も化学兵器で殺している悪いやつだということですね。ただ、悪いやつだからやっつけていいんだという、そこはやっぱり無理がある。そういう無理があることをやったがゆえに、サダム•フセインが独裁体制を敷いていたのと今のように ISIL が跋扈しているのと、本当にどっちが世界にとって良かったのかと思います。


そういうのもひとつの検証の視点になるのではないかと私は思っていますが、あのときの我々の理屈としてはね、もう何度も言ってるから暗記しちゃったんですけど、一定の射程以上のミサイルを持ってたんですね、しかも大量破壊兵器を廃棄した証明もない。それは湾岸戦争の停戦決議である安保理決議 687 に違反している。すると停戦の条件が崩れるから停戦がなくなってしまって元の状態に戻る。そうすると安保理決議 678 という By all means の武力行使を容認した決議が復活をする。だから武力行使をすることができるんだという、ずっとそればかりの繰り返しだったんですね。


でも、これも考えてみれば当時はクウェートに侵攻したイラクをクウェートの外まで追い返すということが湾岸戦争の目的だったわけですから、いくらなんでもそれを破ったからといって政権を転覆していいということまではどうやったって書いてないですね。


そうすると国連憲章では「政治的な独立に関わるもの、あるいは領土の保全に関わる、そういう武力の行使というのは違法である」と書いてある、まさにその違法な武力行使だというところが 678 の論理を持ってしてもカバーはできないんじゃないかと私は思っております。


そのあとの占領政策の問題もあります。戦争が始まる前の 2003 年の1月に私はアメリカへ行って、アメリカのシンクタンクに「あんたたちどうするつもり?」と聞いたら「日本方式でやるんだ」と。フランス方式のように亡命、あれは亡命したドゴールを持ってきて政権の頭へすえたんだけど、そのやり方ではなくてイラクの場合は亡命者を持ってきても国民の支持は得られないだろう。ま、その後に亡命者が政権をとっているんだけど。


日本の場合は官僚機構がしっかり機能していたから日本統治がうまく行ったんだということですね。もうひとついえば日本の場合は天皇がいたわけですから、その天皇に相当するものがイラクではなかったわけですから。ま、そういうこ
とを目論んでいた。


つまり従来のスンニ派のバース党の官僚とか軍人はそっくりそのまま使えば非常に簡単に占領統治ができると思っていた。あとから“違ったじゃないか”と話したら、彼はどうも予想した以上に宗派の、つまり虐げられていたシーア派からの反発が強すぎてバース党をそのまま維持することができなかったんだと言ってますが、そういうことを事前に考えなかったのだということだと思います。このアメリカの占領統治については麻生外務大臣もおかしいんじゃないかということをおっしゃっていたように思います。


当時、アフガニスタンもタリバン政権の崩壊は簡単に終わったんですが、そこに持ってきたカルザイ政権というのも、軍閥が割拠するなかでまったく基盤のない政権をつくり、軍閥の武装解除、日本は一生懸命やりましたけれど、結局軍閥間の勢力争い、汚職とケシの生産がどうしようもなくて、アフガンはいまだに混迷をしている。そこにタリバンが復活してきているという状況だと思います。


戦争がなかったらどうだったのかというのは、なかなかカウントしにくいのですが、ここは少なくともああいう戦争による死者はなかったんだろうな、あるいは ISIL は出てきてないだろうなと私は思います。しかしイラク戦争がなくてアラブの春が来たんだろうか、そのへんはそれなりにロジカルに考えてみる必要があるんだろうと思います。つまり戦争がダメだと言っているだけではなくて、戦争がなければどういうシナリオがあったのかということも考えていかれたらいいんじゃないかと。ま、私は私なりに考えていきたいと思いますが。


そこで小泉総理が、“小泉総理が”と申し上げるのは小泉総理の決断だからですね。当時の話を聞くと、“問題点はこうだ”と、“支持しないとこうなる”、“支持したらこうなる”ということを散々総理にあげるわけですね。最後は総理の決断ということで、その意味で総理大臣というのは非常に孤独なんですけれども。


なぜアメリカを支持したか、しかも開戦の前にブレア政権がイギリス国内で苦境に立たされているということも勘定に入れて、アゾレスでのアメリカ、スペイン、イギリスのイラク戦争の主導国の首脳会議の前に、仮に始めれば自分は支持するということを小泉総理は言ったんですけれども、それは小泉さんの政治的な勘ということだったと思います。


その背景にあるのは、小泉さんはその前年に、「ならぬ堪忍するが堪忍」という言葉で、国連の安保理の同意があったほうがいいと、しかしアメリカが戦争をする決意を持っているんだったらもう誰にも止められないということを一方で考えていた。その場合アメリカに反発するわけにはいかない。むしろアメリカを支持することによって、アメリカの支持国の数を増やすことによって、孤立させないという方向で考えていった。そして当時北朝鮮の核開発問題が日本にとって大きな心配ごとだったわけですから、いざという時に日本を守ってくれるのはアメリカしかいないという、そういう判断が背景にあったということだと思います。


いろいろ聞くと、当時イラクの大量破壊兵器に対する情報は実はわからなかったというのが正解のようです。わからなかったけれども、アメリカが始めちゃったものはしようがないからという頭でものを考えていた。だから大量破壊
兵器がなかったじゃないか、どうするのだということに対して、それはイラクが証明しなかったからいけないんだという。これはちょっと私はひどい論理だと思いますけれども、そのこと自体の判断、つまりアメリカがそういったから自分は従っただけなんだという、どこかで自分の責任ではないと感じる発想も一部あったのかなという感じがします。


自衛隊の派遣ですけれど、湾岸戦争のときに自衛隊を出せず“小切手外交”といわれたトラウマがある。それが本当かどうかといわれますと、防衛官僚として私もそれを感じていたのは事実です。


92 年に PKO 法をつくり最初にカンボジアに派遣するわけですが、これは国連協力の文脈で行われていました。同時に 93 年の北朝鮮の核開発の問題を契機にして日米ガイドラインの見直しに進んでいくわけですが、その流れで国連協力ではなくて、同盟協力というかアメリカに対する後方支援の枠組みというのが一方で作られていくわけですね。国連 PKO のほうはあちらこちらに少数の部隊を出していましたけれど、同盟協力の文脈で実際にこれが使われるようになったのは9•11以降のアフガニスタン戦争でのインド洋に海上自衛隊を出しての給油活動でした。このときのキーワードは“Show the flag”ということだったわけですね。


そしてイラク戦争に進んでいくと“Boots on the ground”ということで、同じ戦場で肩を並べて軍事的なリスクを共有してこそ真の同盟国であるという。

ま、私もそう思っていましたけれども、そこまで行かなきゃいけないんだという、それは議論の対象じゃなかったんですね。そうあるべきだと、そういうObsession(強迫観念)に基づいて政策が決められていったと思います。そのことによってイラクに自衛隊を出す。そのことによって日米は“Better than ever”、「史上最良の関係だ」といわれたわけです。

先日サミットで安倍総理は「かつてなく良好な関係」と言ってますが、当時の“Better than ever”な感覚と比べると今は言葉だけで言っているような感じがします。それくらいこれは安保政策のなかで、同盟政策のなかでも、非常
に大きな到達点だったと思うのですが、それにしてもやはり憲法9条を意識したわけですね。だから、非戦闘地域で武力の行使と一体化しないとか、相手が国に準ずる主体であればそれとの武器の使用は基本的には日本による武器の行使になってしまうから、それはできない。武器の使用を非常に限定するような発想で法律が作られていたわけです。


2006 年の6月 20 日くらいだったと思うのですが、陸上自衛隊のイラク撤収が決まるわけですね。ちょうどマリキ政権ができてイラク東南部の治安権限が多国籍軍からイラク政府に委譲される。そのタイミングを捉えて、今しかないということで、とにかく撤収を決めるわけです。これは小泉総理の強い意志があったというふうに思います。これズルズルやってたら本当にひけなくなっちゃう。当時官邸もいつ退くかということを最優先の課題として考えていた時期だったわけです。


その後アメリカもぺトレイアスが司令官になって、今までのやり方をちょっと改めて一定程度イラクの治安情勢が安定するんですね。そうすると今度はもう一回再燃したアフガンに兵力を回さなければいかんということで、アフガン
問題というのが実は安倍さんのもうちょっとあとですね、福田政権のとき、2007年のちょうど今頃の時期に問題になってきたんですね。


我々は内部でも議論をしましたけれども、当時ねじれ国会でアフガニスタンに自衛隊を出すなど出来っこないのだから、そんなことで色よい返事をして期待感を持たせちゃいけないよねと思ってたんだけど、閣僚のなかには期待感を持たせる返事をした人たちがいらっしゃったんですね。誰とは言わないけれど…。


ちなみに当時は石破防衛大臣、高村外務大臣の時代です。おそらくなんとかしたいという気持ちだったんですね。なんとかしないと日米同盟はもう持たないと。そういう危機感はひしひしと私はわかったんです。しかし、そんなこと言ったって出来ないものは出来ないんだよって話なんです。


つまり、アメリカが戦争をすると、その後始末を日本も行って自衛隊を出すという、その“同盟モデル”というのがイラクで出来上がったのです。それを継続しないと“Better than ever”な同盟関係は維持できないという、そういう Obsession があったんだろうと思います。


それができなかったことで実は同盟の危機、同盟漂流が始まるはずだったんですが、アメリカのほうで政権交代が起きてイラクからの撤退をスローガンにしたオバマさんが大統領に当選するということで、この問題があまり顕在化しないまま来ちゃった。


そして日本のほうも 2009 年の選挙で政権交代をするわけですね。民主党政権はインド洋の給油をやめました。これは本当に形ばかりのものだったので、あまり大きな Friction(摩擦)はなかったんだろうと思います。ただその代わりにアフガンの治安部隊の人件費を払うようなことをそれまでもやってたんですが、そういう貢献はやっていくことになってたと思います。


そういう状況のなかで日米同盟のあり方が問われてたと思うんですね。鳩山さんがおっしゃった普天間の「最低でも県外に」は「駐留なき安保」という発想もあったと思うし、そういう同盟モデルをやろうという発想が根底にあった
んだろうと。


安倍政権になって全然違う同盟モデルですね。アメリカといつでも一体化するという方向の、つまりイラクで言い出した“Boots on the ground”のモデルをもっと徹底して、いつでもやれるようにするという、そういう方向性がある。


そしてその背後にある考え方は安倍総理がおっしゃる「積極的平和主義」。「積極的平和主義」ってどう定義されているかというと、2009 年の国際戦略ファーラムという、安倍さんもそこの顧問かなにかに名前を連ねておられますが、そこで「積極的平和主義」を定義してるんですね。


日本が国際秩序の受益者として一方的に利益を受ける立場から提供者になるということなんです。そのための集団的自衛権行使を認めなきゃいけないという発想、それが「積極的平和主義」。実際それをやるのはアメリカですから、これってアメリカがやる世界の覇権の戦争に日本もいつでも一緒にやるということを意味していたんだろうというふうに思います。そういう同盟モデルがベースにあって安保法制につながっていくということですね。


イラクの検証についてどう思っているのかと新聞社のベテランの人に尋ねたら、彼に言われました。「うちの社はやらない。なぜか?自衛隊が一人も死んでないから」と。そこなんですね、自衛隊が一人死んでたら検証するのか、ということなんだけども、だとすると、まさに今度の安保法制というのは自衛隊員が武装勢力と銃火を交えることを可能にする法制で、死ぬかもしれない法律のわけですね。


そういうものを出しておいて検証しないというのはやはり筋が通らないだろうと思います。あるいは検証しちゃったらそういうことはできなくなるんじゃないかということだと思うんですね。


で、判断ベースとして 2009 年までの認識ではイラクの自衛隊派遣は成功だった
ね、一人も死なないで良かったね、というのが通り相場なんですね。それが本
当に相場でいいのかということも問題として考えていただかなきゃいかんと思うんですね。


なぜ良かったか。アメリカに誉められて、アメリカとの関係が良くなったと。そういう政治目的を達成する、そしてそのために犠牲も出さずに済んだと。そういう意味で成功だったんだという意識だと思うんですね。


そういうところが今後どう変わっていくのかということを考えていかなければいけないと思います。そういうリスクと向き合ってないと思うんですね。あたりどころが悪ければ誰か死んでたと、当時官邸から見てて思っていたけど、
それでもこっちから撃ってない、こっちから地元の人たちに武器を向けてない。


地元の敵意によって反撃されないという基本条件があったから、結果として一人の犠牲者も出なかったというのが、私のイラク派遣の教訓なんです。


しかし安保法制のベースになっている教訓は何かというと、武器が使えなかったからオランダ軍を守ってあげられなかったという話なんですね。それも教訓だ。教訓だけれどそちらの教訓に乗っかっていくのがいいのか、武器を使わなかったゆえになんとか犠牲者を出さずに、それでも出るかもしれませんが、そういうスタンスでこれからもやるのかということが問われているんだろうというふうに思っています。

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