2016年8月10日水曜日

150723 原爆投下から70年。広島の被爆者が語った原爆被害と戦争への思い

【再掲】2015/07/23 「なんであんな殺され方をしたのか、私は知りたい。あの世で、ちゃんとお兄ちゃんに説明できるように」――原爆投下から70年。広島の被爆者が語った原爆被害と戦争への思い
記事公開日:2015.8.6

 原爆写真の収集・保存に取り組む「反核・写真運動」が、合計830点の原爆写真をまとめた『決定版 広島原爆写真集』『決定版 長崎原爆写真集』(勉誠出版)をこの夏、出版する。これに先行し、2015年7月23日、東京・文京シビックセンターで「原爆投下70年―広島・長崎写真展」が始まった。ギャラリーには初公開のものも含め、約80点の原爆写真が展示された。
 「私は自分の『広島』しか知らない。だから、他の人たちはどういう体験をしたんだろうと思って。10万人いれば、10万人の体験があるから」
 広島で被爆した天野文子さん(84)はじっくりと写真を見つめていた。

天野さん「ずっと戦争の中で育っていながら、ずっと戦争を知らなかった」

 天野文子さんは被爆者として、自身の被爆体験を語る活動を続けてきた。1978年にはアメリカでも核兵器の非人道性を訴えた。
▲IWJのインタビューに自身の被爆体験を語る天野文子さん
 1945年8月6日。当時、高等女学校3年生だった天野さんは、爆心地から5キロほど離れた動員先の工場にいた。
 午前8時15分。工場に着いたばかりで、まだ作業着に着替えてさえいなかった。そこで突如、爆風と轟音に襲われた。天野さんはとっさにしゃがみ込んだまま、しばらくは何が起きたのか把握できなかった。
 「先生助けて!」という声が聞こえ、天野さんはハッと我にかえった。立ち上がり、あたりをみる。当時の様子をこう振り返る。
 「外に出ると、目の前にはブルーとピンクと黄色の火柱がぐんぐん空高く昇っていて、パーッと輪になった。輪は、虹のように本当に綺麗だった」
 避難した山の上からは、あちこちで火の手が上がった広島の街が見えた。
 天野さんは友だちと一緒に自宅の方へと急いだ。自宅は爆心地から1.2キロの場所にあった。広島県広島市中区上幟町にある縮景園のすぐ近くだ。
 「あちこちが燃えていた。途中、兵隊さんに『馬鹿野郎! 死にたいのか!』と怒られて、いつの間にか友だちとも離れていた。ひとりになって、火の中にも入れず、一晩中、道端の岩にすがっていた」
 「幽霊の行列」のように歩いて逃げる人々に「上幟町は?」と問いかけると、「全滅じゃ、全滅じゃ!」と返ってくる。匂いも何も感じない。「全滅じゃ」という声だけが耳に残る。天野さんは両親に会いたいと思った。しかし、この火の中で生きているとも思えなかった。
 夜が明ける。多分、3時半から4時のあいだ頃。すこし火がおさまってきたのを見計らって、天野さんはひとりで街に入った。ゴム底の靴からは、土の熱さが伝わってくる。ぴょんぴょんと跳ねたかったが、あちこちに死体が倒れていたため、それもできなかった。
 「死体を見て、瞬間的に『怖い』と思ったけど、すぐに『私も死ぬはずだったのにごめんなさい』と思い直した。そしていつからか母を思い、『ごめんなさいね、苦しかったでしょう。熱かったでしょう。私も死ぬはずだったのに、ごめんなさいね』と謝りながら、よたよた歩いた」
 焦土と化した広島の街。足場は悪く、天野さんはすべってしまった。そのまま地べたに座り込み、うつむいた。
 もう1人で歩けない――。
 そう思ったとき、「文子!」と呼ぶ声が聞こえた。
 目を開けてあたりを見る。誰もいない。空耳か。ただ、目の前に横たわっていた女性の綺麗な死体の目が開いていることに気がついた。天野さんは死体と目が合ったように感じた。その綺麗な死体の目にすくめられ、さっと立ち上がり、そこで初めて広島の街全体を見渡した。
 もやもやした中でも「あそこが中国新聞社のあったところだ」とわかる。しかし、もう誰もいない。この世に生きて立っているのは自分一人だけ…そんな錯覚に襲われた。天野さんは、「まるで中国の奥地に1人でいるようだ」と思った。
 なぜか。
 毎週、土曜日になると、天野さんたちは学校で“ニュース映画”を観させられていた。南京陥落、シンガポール陥落…そうした映像を観るとき、いつも城壁の上に立った日本の「兵隊さん」が、旭日旗を剣先につけた銃剣を掲げていた。そして『万歳!』と叫ぶ――お決まりの画だった。
 「それを思い出したから、『ああ、あの万歳の下で、おじいちゃんおばあちゃん、子どもたちが死んでたんだなぁ』って。初めて戦争で死ぬ、ということがどういうことかわかった。原爆投下の日は、私が戦争を知った日であると同時に、戦争が終わった瞬間だった。『東洋平和のための聖戦』なんて嘘だ! って、その瞬間に思った」
 ニュースに映ることはないが、喧伝された日本の「栄光」の裏には、虐げられた現地の人々がいた。そのことに、原爆が落とされて初めて気がついた。自分の姿が、中国の奥地の人と重なった。
 「私は戦争の中で育った。昭和6年1月に生まれて、その年の9月18日に満州事変が起きた。小学校1年生の時には支那事変があって、5年生の時には、いわゆる大東亜戦争が起きた。ずっと戦争の中で育っていながら、ずっと戦争を知らなかった」
 とにかく家まで行こう。
 天野さんは再び歩き出した。橋から川を眺めると、大量の死体が溜まっていた。
 ようやく辿り着いた家は、跡形もなく消えていた。残っていたのはコンクリートの流しと、大きな鉄の釜だけ。「この土を掘って、お母さんを探そう」と考えた。「おかしなもので、土を掘ったらまだお母さんが生きているはずだ、と思った」と天野さんは振り返る。
 天野さんが泣いていると、真っ黒になった近所のお姉さんがそばに寄ってきた。「ふみちゃん! お父さんと、お母さん、生きとったよ。川の側に行ってごらん」
 10メートルほど歩くと父と再会した。「おお文子、生きとったか!」。父は身体のあちこちから血が滲んでいた。父に会った途端に、身体の力が抜け、ひとりで歩くこともできなくなった。手をつなぎ、ふたりで母のところへと向かった。
 母は足を怪我して動けずにいた。父が自分のシャツを使って応急処置を済ませ、父と母と、家の近くに戻った。
 道の向こうから、太い杖を持った、真っ黒に焼けた人が歩いてきた。足は裸足で、ズボンもボロボロ、顔は溶岩のようになっていたが、天野さんにはそれが誰だかを判別できた。兄だ。
 兄は言葉も発することができなかった。その姿を見た両親も息を飲んでいた。原爆投下のとき、兄は家の縁側、つまり爆心地側にいたのだ。爆風を正面から受けたはずだった。生きていたことが奇跡だったのかもしれない。
 兄は、その晩は田舎の農家で野宿させた。
 「農家の方は、トマトをくださった。兄に食べさせたが、兄の身体は真っ赤に焼けていて、トマトの中身が身体に溢れると、兄の真っ赤な身体の色と同化して…それを見た私は、何年もトマトが食べられなかった」
 その後、山奥にある父の兄の家に向かった。兄は目と鼻と口だけを残し、全身に包帯が巻かれた。その姿をひと目みて、当時小学3年だった天野さんの妹は貧血を起こし、とうとう、兄が死ぬまで一歩も兄の寝る部屋に入ることはなかった。
 兄が死んだのは8月19日。その日の夕方には死体を焼いた。妹は青い顔で、兄が焼けてゆく姿を父にすがりながら最後まで眺めていた。
 それから何十年も経ったある日、天野さんは妹に、当時の思いを聞いたそうだ。妹は、「『お兄ちゃんのことが怖い』と思って、私は部屋に一歩も入れなかった。だから『ごめん。悪かった』と思いながら見送った」と話したという。
 「人殺しよ、戦争は。戦争は人殺し。大東亜戦争なんて人殺し」
 天野さんは力を込め、静かにつぶやいた。
 戦争が終わったことを知ったのは敗戦の翌日、8月16日だった。報せを受け、父は「そんな馬鹿な」とこぼした。だが、天野さんは「私はもっと馬鹿なことした」と語る。
 「私は、そのときまだ生きていたお兄ちゃんの部屋に駆け込んで、こう言った。『お兄ちゃん、戦争終わったよ。日本は勝ったよ!』って。靖国に眠る人たちと一緒。“無駄死に”だと思わせたくなかったんだと思う。でも私はこの70年間ずっと、ずーっとその言葉で苦しんだ。死んでいく人に、なんで嘘言ったんだろう、って。
 何のために戦争して、どうしてこんな馬鹿な戦争を起こしたか。そして、なんであんな殺され方をしないといけなかったのか、それを私は知りたい。私があの世に行ったら、ちゃんとお兄ちゃんに説明できるように。
 いいえ。お兄ちゃんだけじゃなくて、アジアの人や、あの戦争で死んだ人たちにも説明したい。お兄ちゃんは、すっと息を引き取る前に、ひとこと『痛い』って言った。それが、兄が被爆してからの初めての言葉でもあった。戦争で死んでいった人たちの『痛い、痛い』の思いを込めて、私は証言をしているの」
 写真集『決定版 広島原爆写真集』『決定版 長崎原爆写真集』を編集した小松健一さんはこの日、会場準備のあと、展示会場で閲覧者に写真の説明をしていた。写真のキャプションも小松さんが書き上げた。報道用の提供写真を数枚、掲載する。
▲爆心地から6500m。広島市の東北東約7kmの水分峡(みくまり)峡へ遊びにいっていて広島市上空にB29が1機、落下傘が浮いているのを見た。間発閃光、飛行機は猛スピードで逃げる。異様な色を放って雲の柱がたちのぼった。轟音と爆風がきた。2枚撮影の1枚目。2枚目は雲が画面いっぱいに広がり、形がわからなかった=1945年8月6日、広島県安芸郡府中町水分峡頂上から(撮影:山田精三)
▲下流の元安橋から被爆後、初めて撮影された広島県産業奨励館(原爆ドーム)=1945年8月(撮影:松重美人)
▲広島大芝国民学校救護所の理科教室が病室。板の上にムシロを敷き、布団に横たわる母と娘=1945年9月中旬(撮影:菊池俊吉)
▲長崎市香焼島(現在の香焼町)にあった川南造船所事務所から爆裂15分後に撮影した長崎の原子雲。地上からの写真としてはもっとも早い=1945年8月9日(撮影:松田弘道)
▲幼児を背負い、ぼう然とたたずむ女性。抱えた鍋は、亡くなった家族の遺骨を拾うためだったと後に語った=1945年8月10日、長崎市(撮影:山端庸介)
▲炊き出しのおにぎりを持つ少年。爆心地から南1.5km=1945年8月10日朝、長崎市井樋ノ口町(現在・宝町)(撮影:山端庸介)
 写真の撮影者は27名。ひとりを除き、すべての撮影者がすでに亡くなっている(うち1人は消息不明)。いつ、どこで撮られた写真か、ひとつひとつ調べあげるのは途方もなく膨大な作業だったという。また、掲載されてはいないが、他にも20名の撮影者が原爆写真を撮っていたこともわかったという。
 「戦時中、広島は陸軍最高軍事機密の場所で、長崎は海軍の長崎造船とかもあった場所。これらの施設は、一番の軍事保持の対象となる場所で、カメラ持っているだけでも、えらいことになる。そんな中で撮った、貴重なものだ」
 事実として、1941年、当時、北海道帝国大学の学生だった宮澤弘幸さんが、英語教師だったハロルド・レーン夫妻に、根室の海軍飛行場について話したとして「軍機保護法違反」で逮捕される事件が発生。懲役15年の実刑がくだされた(レーン・宮澤事件)。
 特高警察は、レーン夫妻がこの話を米国大使館駐在武官に伝えたとする虚偽の事実をでっち上げた。国民の国防意識を高めるために特高警察が仕組んだ典型的な冤罪事件だったと言われている。
 戦後、米進駐軍の検閲を恐れた人々は、長崎、広島で撮られた写真や資料を燃やした。しかし、ここに展示されているような写真の撮影者たちは、命がけでフィルムを隠し持っていた。だから今、現代を生きる我々も当時の悲惨な状態の一部を垣間見ることができている。小松さんはそう説明する。
 「命がけで残した先輩たちの思いを継いでいかないといけない。それが我々は使命だと思っている」――。
 展示会は7月26日(日)まで、文京シビックセンター1階のギャラリーで開催されている。参加無料。
※ 写真展は終了しました
(取材、写真、記事 原佑介)
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