http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49799
内戦に対して国際社会はどうするか
今から20年以上も前の1994年、アフリカの小さな国で、大変なことが起こりました。ルワンダの大虐殺です。一般市民が、100万人亡くなりました。100日間で100万人の虐殺です。
典型的な「内戦」、一つの国の中の「内輪揉め」です。つまり、政府と反政府ゲリラが戦うという構図です。
こういう国で、なぜ内戦が起こるのか。そこを植民支配していた西洋の列強国がいけないに決まっているのですが、歴史を後悔してばかりもいられません。現在進行形で多くの罪もない市民が犠牲になるのですから。
こういう問題を、国際社会としてどう解決していくか。国連の出番です。でも問題があります。
* * *
そもそも国連とはなにか。
ボツダム宣言でいうところの地球侵略を企てた不埒者(我々日本のことですね)をボコボコにして成敗した第二次世界大戦後、二度とこのような不埒者つまり侵略者を出さないため、地球上で起こる「武力の行使」を戦勝五大大国が牛耳る。これが国連です。
侵略者、つまり他の国の国民を虐める国家が現れた時、国際社会は五大大国の号令の下、それを殲滅するのです。
でも内戦は、そうじゃない。国民を虐めるのはその国民が属する国家なのです。
これは手が出せない。だって、五大大国だってそれぞれに脛に傷を持っている。例えば、中国のチベット問題のように。
誰だって、そうでしょ。夫婦喧嘩に、頼みもしないのに赤の他人が割って入ってきたら、ちょっと嫌ですよね。国連に加盟した途端、内政に干渉するって言ったら、誰も加盟しませんよね。だから、「内政不干渉」が原則になっているのです。
でも、世界は内戦の時代に突入し、あっちこっちで、いわゆる古典的な戦争(国家と国家のそれ)と同じような、いや、それ以上の犠牲を出すようになる。
世界を統制する五大大国として、国連として、何もしないのは、沽券にかかわる。
こんなジレンマから生まれたのが、PKO。国連平和維持活動です。
ルワンダのトラウマ
PKOは、罪もない一般市民が犠牲になるのをほっとけない人道主義と、内政不干渉の原則の、いわば、妥協の産物なのです。
たとえるとこんな感じです。
ある一家の夫婦喧嘩ですね。旦那と奥さんが、ものすごい殴り合いやっている。ご近所は、窓越しに、ハラハラしながら見ている。こんな状態がしばらくすると、必ず、ご両人、疲れてくるのですね。お互い、負けは認めないけど、誰かそれなりの人、第三者が肩を叩いてくれるのを、口に出さないけど心待ちにするような(奥さんと不倫の疑いがある隣のオヤジじゃダメです)。
これが、いわゆる「停戦」です。
こういう時なのです、PKOが入れるのは。
旦那と奥さんの双方の了解の元、割って入る。ここでPKOは、旦那より腕っ節が強くなければなりません。また殴り合いが始まらないように、一つの脅し、抑止力ですね。だから、武装する。
PKOとは、紛争の当事者(旦那と奥さん)の同意の下の第三者の「武力」介入なのです。
でも、その武力はあくまでお飾り。行使することはあまり前提にしていない。だって、この夫婦ゲンカは、別に他の家に迷惑をかけているわけじゃない。つまり侵略しているわけじゃない。国連として戦争するわけにはいかないのです。
でも、もし、PKOの目の前で、停戦が敗れ、再び殴り合いが始まったらどうするか?
皆が心配しつつも、あまりにも多くの人道危機が起こるので、あえてあまり考えずにPKOは現場に専念していたのですが、ある日、これが起きてしまうのです。冒頭で言った1994年のルワンダの虐殺です。
この時、虐殺の首謀者は、政権を握る多数派部族のフツの民兵。それが、少数派のツチの一般市民に襲いかかった。これを止めるためにPKOが動けば、それは必然的に政権側に対して武力の行使をすることになる。つまり、国連とー国連加盟国の政権との戦争です。
だから国連は躊躇した。でも、現場のPKO部隊は、何とか行動を起こしたい。当たり前です。目の前で、未曾有の大虐殺が起きているのですから。躊躇したのはニューヨークの国連本部なのです。
そうこうしているうちに、現場の状況は手がつけられないほど悪化。PKOに部隊を出していた国が、恐れをなして、一つずつ撤退してゆきます。PKOは基本的に自発性がベースなので、国連に撤退を止める強制力はないのです。
結果、PKOは完全に撤退。そして、100万人の罪もない一般市民が犠牲になりました。
この時のPKO部隊の最高司令官はカナダ陸軍の将軍でロメオ・ダレールといい、僕の友人です。彼は、その後、自殺未遂します。
PKOが目の前で起こる虐殺を見放した。これは、国連にとって、大きなトラウマになります。そのトラウマから生まれたのが、次に紹介する「保護する責任」という考え方です。
PKO部隊は「紛争の当事者」になることも
「保護する責任」とは、誰の責任か?
国連を中心とする国際社会の責任です。危機に瀕している無垢な市民を見放さないという責任です。
でも、これが実行に移されるまでには時間を要しました。やはり、国連の原則である内政不干渉がネックとなっていたのです。
でも、内戦による犠牲者はどんどん増えてゆきます。ルワンダの隣のコンゴ民主共和国では、なんと20年間で540万人(東京都の半分です!)が犠牲になっていたのです。
そうして、ようやく、国連は一大決心をします。それが、1999年に国連事務総長の名で発布された告知です。これにより、PKO部隊は、任務遂行のためには、「紛争の当事者」になることを厭わなくなったのです。これは、それまで中立性を重んじていたPKOにとって、一つの革命です。
この告知によって、もし無垢の住民がPKOの目の前で攻撃を受けたら、PKOはその脅威に「紛争の当事者」として立ち向かうのです。
例えば、ふつうの国で、もし国民に脅威が降りかかった時、その脅威を排除する、つまり戦争するのは、その国の国軍です。それをPKOがやるのです。
その脅威が、PKOの受け入れを同意したその国の国軍であっても、です。
もはや、停戦の有無などは関係ありません。
現在、自衛隊が送られている南スーダン。南スーダンPKOがまさにこれなのです。
南スーダンPKOの筆頭任務は「住民の保護」
南スーダンは、スーダンの内戦から生まれた、世界で一番新しい国です。2011年のことです。
国際社会は、依然隣国のスーダンとの紛争を抱えるこの国の誕生を支援しようとしました。PKOも、新しい国の建国の支援という意味合いで派遣されることになりました。
ところが、しばらくすると、この国は内部から分裂してしまうのです。なんと、新しい内閣の大統領と副大統領が仲違いし、両派の間で2013年から激しい内戦状態になるのです。
2013年は、1999年のPKO変革の後ですから、南スーダンPKOは、即座に、筆頭任務を「住民の保護」(保護する責任)に切り替えました。ルワンダの時のように、撤退はしません。
南スーダンで活動するPKO兵士。「住民の保護」のため、もはや撤退することはない。〔PHOTO〕gettyimages
昨年2015年にやっと、停戦合意が、締結されました。その合意を実行するために、ずっと国外にいた副大統領とその一派が首都ジュバに入り、これから新しい政府の体制をつくろうかという矢先、今年7月、両派の間で大規模な戦闘が起きてしまったのです。
多くの住民が犠牲になりました。でも、PKOは逃げません。中国軍のPKO兵士が2人殉職しました。
事態を重く見た国連安全保障理事会は、先月、PKO部隊4000名の増員を決定しました。
繰り返しますが、PKOは、もう、逃げないのです。住民を守るために。
自衛隊派遣の根拠は?
さて、自衛隊です。
皆さんの中には、「駆けつけ警護」などの新しい任務を背負わせて、安倍政権がこれから自衛隊を派遣すると思っている方はいませんか?
それは違います。南スーダンに自衛隊を送ったのは、2011年、民主党政権です。
この時に派遣の根拠としたのは、PKO派遣5原則という日本の国内法で、1992年にできたものです。
PKO派遣5原則とは、自衛隊の派遣のための条件です。
その条件とは、紛争当事者の同意があり停戦が守られていること。そして、その停戦が破られたら撤退できる、というものです。
これが、現在でも、南スーダンの自衛隊派遣の根拠になっているのです。
PKO派遣5原則はなりたっていないのだから自衛隊は今すぐ撤退させろ!と皆さんは思うでしょう。
できません。遅すぎます。
今、全世界が、南スーダンの情勢を憂い、住民を見放すなと言っている時に、日本が引いたら、どうなるか? ルワンダの時とは、まったく違うのです。日本は、危機に瀕した無垢な住民を見放す非人道的な国家として烙印を押されます。外交的な地位が失墜します。
だから、現場の自衛隊は、撤退しないのです。というか、できないのです。
誰が自衛隊を追い込んだのか?
これは、非常に奇妙な状況です。
だから日本政府だけなのです。世界が重大な人道危機と憂いている南スーダンの今の状況を、「安定している」と言い続ける国は。
「安定している」と言い続けなれば、南スーダンに自衛隊を置き続ける法的な根拠が土台から崩れてしまうからです。
でも、その土台を根本的に見直す、という話にはならない。
だって、その土台を運用してきたのは、歴代の自民党政権だけでなく、旧社民党の面々も内閣にいた旧民主党政権の面々も、みんな同じ穴のムジナなのですから。
つまり、諸悪の根元であるPKO派遣5原則の見直しは、「政局」にならないのです。だから、ズルズルとここまできてしまったのです。
現場の自衛隊はたまったものではありません。全く意味をなさない日本の国内法と、国際人道主義の板挟みになって、世界で最も危険な戦場の一つに置かれ続けるのです。
自衛隊をこの状況に追い込んだのは誰の責任でしょうか?
1999年の国連によるPKOの劇的な変化を見誤ったのは、誰の責任でしょうか?
そのPKOに劇的な変化をさせたのは、現場で起こっている人道危機です。南スーダン、いや、アフリカのあの一帯の危機的状況を見誤ったのは、誰の責任でしょうか?
自民党だけですか? そもそも、常に批判の目を政策に注ぐのが、野党の役目じゃないのですか?
僕は、安倍政権の安保法制に反対の立場をとってきました。これは、現場、特に南スーダンの自衛隊の立場を、今まで以上に悪くするものと考えています。
しかし、以上の説明のように、諸悪の根元は、この安保法制ではありません。それ以前からあるPKO派遣5原則なのです。
言うまでもなく、PKO派遣5原則の見直しには、与党、野党、双方がまず懺悔することが必要です。これを政局にしてはいけません。与野党の協力が必要なのです。
残念ながら、それには、時間がかかります。
じゃあ、今、我々が直面する南スーダンの危機をどう乗り切るか?
神様に祈るしかありません。
国連がPKOの増員を決定したばかりですから、いつか必ず、現場は、小康状態になるはずです。それまで、自衛隊が、武力で住民を守らなければならないような状況に遭遇しないことを祈る。それしかありません。
そして、なんとか持ちこたえて、その小康状態が訪れたら(その時には国際人道主義も少しは余裕があるはずで)今度こそ、チャンスを逃さず、自衛隊を一旦、完全に撤退させましょう。
ここまでのプロセスを、懺悔と共に、与野党が合意するのです。
そして、PKO派遣5原則を見直す国民的議論をしましょう。
「9条を護る」とはどういうことか
繰り返しますが、今PKOに加わることは、「紛争の当事者」になることを前提としなければなりません。
それは、つまり、「敵」を見据え、それと「交戦」することです。9条が許しますか?
これは9条の問題なのです。
二つしかオプションはありません。
① 変貌したPKOに自衛隊を参加させるのだったら、9条を変える。
② 9条を変えないのなら、自衛隊は絶対にPKOに行くべきでない。
これを国民が決めるのです。
これこそを、与野党は、政局とするべきなのです。
その際に、特に憲法9条を大切に思っている皆様に考えていただきたいことがあります。
南スーダンのあるアフリカのこの一帯は、すべて、原油、レアメタル、ダイヤモンドなどの資源国です。
内戦状態のこういう国から、資源がなぜか我々一般消費者の元に届くのです。密輸されたものです。そして、この利権が内戦の原因なのです。
欧米では、こういうものを「紛争資源」「紛争レアメタル」「紛争ダイヤモンド」と呼んで、業界そして消費者自身の自主規制の運動を始めています。
9月12日、ワシントンで記者会見を開き、南スーダン内戦に加担する銀行を強く非難したジョージ・クルーニー〔PHOTO〕gettyimages
内戦の原因となる地下資源をマーケットから排除する取り組みがなされているのです。アメリカでは、それをすでに法令化し、EUでも同じ動きがあります。
日本はどうか。全く、悲劇的に、遅れているばかりでなく、日本のメディアは報道すらしません。
メディアの責任か? 我々視聴者が、それに興味を示さないかぎり、営利企業であるメディアは報道しません。
日本は、「紛争資源」を無批判に消費する、数少ない先進国の一つになってしまいました。日本国憲法の前文でいう「名誉ある地位を占めよ」とは、こういうことなのですか?
我々は、今度こそ、本気で、「9条を護る」とは、どういうことか、考えなければなりません。
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