2016年9月25日日曜日

160825 ナチスから迫害された障害者たち

シリーズ戦後70年 障害者と戦争 
  1. ナチスから迫害された障害者たち (1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか

この放送回の番組まるごとテキストを掲載しています





  • 藤井 克徳さん(日本障害者協議会代表)
    シリーズ戦後70年 障害者と戦争  ナチスから迫害された障害者たち (1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか の番組概要を見る

    戦後70年 障害者の虐殺の歴史と向き合う藤井さん

    (VTR)
    第2次世界大戦の終結から70年。
    ドイツでは道行く人たちに戦争による過ちに向き合ってもらおうとする展示が町のあちらこちらで行われています。
    「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる」。
    歴史を風化させないよう、国を挙げて取り組んできました。
    この節目の年にドイツを訪れたのは、長年日本の障害者施策に提言を続けてきた藤井克徳さんです。
    視覚に障害があります。
    藤井:それで、T4計画の記念碑の広場は?
    同行者:ずっと左手に。
    藤井さんは今年 どうしても向き合いたい歴史がありました。
    それはつらい過去をあえてさらけ出してきたドイツでも近年まであまり語られてこなかった事です。
    戦時中、精神障害者や知的障害者などが大量虐殺されていました。
    藤井:働く能力がなくて、治療の効果もないと見られた人はガス室で殺害されました。
    社会での反応は書いていないですか?
    誰もが知らないというのはありえない。
    だけどオープンに反対した人は少なかったんですね。
    生きる価値がないとされ殺された犠牲者は20万人以上。
    殺害には医師たちが自主的に関わっていました。
    そしてこれが後にユダヤ人の大虐殺につながった事も分かってきました。
    2010年、ドイツの精神医学会は障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪しました。
    シュナイダー:私たち精神科医は、ナチの時代に人間を侮辱し、自分たちに信頼を寄せていた患者を裏切り、自ら患者を殺しました。
    あまりにも遅すぎますが、全ての犠牲者にドイツの連盟と精神科医が追わせた不正と苦痛に対してお詫び申し上げます。
    民衆がヒトラー政権に酔いしれる裏で進められた、障害者たちの大量虐殺。
    誰も止めようとはしなかったのでしょうか。
    「シリーズ障害者と戦争。ナチスに迫害された障害者たち」。
    1回目は20万人の大虐殺がなぜ起きたのか、その真実に迫ります。

    父を殺されたバーデルさん

    南ドイツにある、ギーンゲン。
    人口およそ2万人の小さな町です。
    藤井克徳さんがまず訪ねたのは、障害者だった父を殺されたという遺族です。
    バーデル:こんにちは、よくいらっしゃいました。
    ヘルムート・バーデルさん(81歳)。
    父親は脳神経系の難病を患っていました。
    子どもの頃に住んでいた家が、今もそのままの形で残っています。
    バーデル:シンプルな家ですが、1階には大きな部屋があります。 
    そこは父の作業場でした。 
    父は靴の修理職人だったんです。
    藤井:お父さんとこの辺で遊んだんですね?きっと。
    バーデル:はい。父の作業場に私専用の小さなテーブルがありました。
    私はいつもそこに座って、ハンマーでくぎを打つまねをしていたんですよ。
    1901年に生まれた父、マーティン・バーデルさん。
    厳しい修業を経て、23歳で靴職人となりました。
    バーデル:これは父が修理に使っていた道具です。
    仕事に打ち込み始めたやさき、手足の震えや神経のまひなどパーキンソン病の症状が出始めます。
    バーデル:この写真を見ると、父が既にパーキンソン病であった事が分かります。 
    体が前に傾いていて、片腕を背中の後ろに隠しています。 
    表情もよくありません。
    症状が悪化したのは、30代後半。
    1938年。家から遠く離れた大きな州立病院に入院します。
    それは医師に半ば強制された入院だったといいます。
    有効な治療方法が見つからない中入院は長引きました。
    マーティンさんは家族に度々手紙を書き、寂しい気持ちをつづっていました。
    (1938年12月の手紙)
    「親愛なる皆様、お手紙が届き、重い気持ちで読みました。私は悲しみに暮れています。いつ帰る事ができるか分からないからです」
    (1939年3月)
    「いつまでここにいなければならないのでしょう」。
    バーデル:父は常に治療が終われば家に帰って、自分の仕事に戻れると思っていました。
    この手紙からおよそ半年後。
    ドイツ軍はポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まります。
    このころ届いた手紙には働けない悔しさがにじんでいました。
    「男たちが皆戦争に行き、やるべき事が山ほどあるのに私はここでじっとしているしかできない。私が一番心配なのはあなたたちを養えない事。知り合いに何か仕事がないか聞いてみてもらえませんか」
    しかし、この手紙には医師からの注釈が加えられていました。
    「マーティンさんは退院したら働けると思い込んでいるようだが、うまくいく訳がない」といった内容でした。

    動き出した障害者殺害計画「T4」

    このころヒトラーはドイツ民族を最も優れた人種と位置づける政策を強力に進めていました。
    そこで迫害されたのが、ドイツ民族の血を汚すとされたユダヤ人です。
    同時に障害者や遺伝性の病気の人も民族の血を汚し、金ばかりかかる価値のない命とし、その考えを広めていきました。
    映画台詞:「健康な国民同胞を健全にする資金が、白痴者を扶養するために使われている。施設にはそのような者がうようよいる。この遺伝性疾患のあるきょうだいの世話にこれまで154000マルクかかった。どれほどの数の健康な人々がこの費用で家を買えるだろうか!」
    障害者の歴史に詳しく、自らも視覚障害のあるヘルベルト・デムメルさんです。
    デムメル:障害者は生きる権利がないというのが、ナチスの考え方でした。
    個人は常に社会にとって価値があるかないかで判断されていました。
    つまり共同体がまず大事で、個人は完全にその下だったのです。
    ドイツ経済を立て直し、国民の熱狂的な支持を集めていたヒトラー。
    その人気の裏で障害者にかかる費用を削り、殺害計画を進めていきました。
    これはヒトラーが側近と自分の主治医に宛てた秘密文書です。
    「病気の状態が深刻で、治癒できない患者を安楽死させる権限を与える」。
    実行にあたり、患者を苦悩から解放するという名目で全国から立場ある精神科医や病院長などが集められます。
    この極秘計画は後に実行本部が置かれた場所から、T4作戦という暗号名が付けられました。
    まず全国の病院や施設に患者一人一人についての調査票が送られました。
    病名や症状を聞くほか「退院の見込みはあるか」。「労働者として使えるか」などの質問もありました。
    この結果を基に本部の医師たちが生きる価値があるかを判断。
    殺してもいいと思った場合は判定欄に+マークを書き込みます。
    統合失調症だったこの女性の場合、4人全員が殺してよいとしています。
    殺害場所には人目につきにくい施設が選ばれました。
    その一つが南ドイツにある、グラーフェネック城です。
    更に最も効果的な殺害方法を検討。
    一酸化炭素ガスが有効とされると、城近くの空き地にガス室が造られました。
    このころ、何も知らないマーティンさんは家族とのやり取りを続けていました。
    「戦争が終わるまで待ちなさいという慰めに同意できません。それにはあと3年、いや5年はかかるかもしれません。どうしても40歳の誕生日までに帰りたい」
    バーデル:しかし父は40歳にはなれませんでした。
    この3か月後、母は父に葉書を出します。
    しかし、あて先不明で返ってきてしまいます。
    そしてその直後、入院していたはずの州立病院ではなく、グラーフェネックから父の死亡通知が届きました。
    死因は脳卒中と書かれていました。
    バーデル:あの日の事はよ~く覚えています。 
    急に母の大きな叫び声が聞こえました。
    すぐに駆けつけると、「お父さんが亡くなった」と知らされたのです。
    母は「夫が突然亡くなるのはおかしい」と市長に言いに行きました。
    しかし市長は「バーデルさん、そんな事を言わないで下さい。あなたの身が危険にさらされますよ」と言ったのです。
    それが父の最期でした。
    マーティンさんの死亡通知が届く5か月前から、グラーフェネックではガス室を使っての殺害が始まっていました。
    鑑定により生きる価値がないとされた人たちは、各地の病院や施設から灰色のバスに乗せられて運ばれました。
    バスの窓は塗り潰されたり、カーテンが掛けられたりしていました。
    マーティンさんは運ばれたその日のうちに殺されたと考えられています。
    1940年6月14日。40歳の誕生日まであと5か月でした。
    殺害施設ではガス栓を開けた医師のほか、看護師や遺体を焼却する人など多い時には100人ほどが関わっていました。
    雇われる前に仕事の説明を受けていましたが、特に反対する人はいなかったといいます。
    藤井:ああしてお手紙を読ませてもらってね。
    どうしてあれが生きる価値がないかということがとても考えられない。
    ああいう死に追いやる本当の理由がね、私はますます分かりづらくなったというのが今日の率直な感想ですかね。

    止めようとする人はいなかったのか? 声をあげなかった住民

    誰も止めようとする人はいなかったのか。
    藤井さんが向かったのはドイツ中西部の町、ハダマーです。
    交通の要所として古くから栄えていた、ハダマー。
    グラーフェネックでの殺害開始から1年後、町の中心部の高台にあった精神病院の地下にまた新たなガス室が造られました。
    町の人たちは気付いていなかったのか。
    当時の様子を覚えている人がいると知り、会いに行きました。
    ハダマーで生まれ育った、ハインツ・ドゥフシエーラさん82 歳。
    殺害が行われていた頃は7~8歳でした。
    精神病院がよく見えたという橋に連れていってくれました。
    ドゥフシエーラ:あちらです。 
    昔は木がもっと低くて、施設がよく見えました。 
    いつも煙が見えて、何だろうとうわさしていました。
    とても臭くて嫌な臭いでした。
    ドゥフシエーラさんが強烈に覚えている事があります。
    それは戦争から帰ってきた兵士が言った言葉でした。
    ドゥフシエーラ:戦場で死体を焼いているにおいと同じだと言ったのです。
    それを聞いた大人たちはびっくりしていました。 
    満席のバスがしょっちゅう上がっていくのですが、帰りはいつも空っぽでした。 
    もう施設の中はいっぱいのはずなのに「おかしい」と大人たちが言っていたのを覚えています。
    藤井:住民の良心としてそれを止めようという、そういう住民のまとまった動きっていうのはやはり難しかったんでしょうか。
    ドゥフシエーラ:もう手遅れでした。
    ナチスの監視システムは既に出来上がり、徹底していました。 
    この町の人たちはいつも受け身で、どうせどうする事もできないと思っていました。
    山の上で何かしてはいるけれども、自分たちとは関係ない事だと考えるようになっていったのです。

    暴走し、歯止めがきかなくなった殺害

    各地からバスに乗せられてやって来た障害者たちは、どのような最期を迎えたのか。
    ハダマーの精神病院の地下には今もガス室の跡が残っています。
    藤井さんは、訪ねる事にしました。
    学芸員のレギーネ・ガブリエルさんが、犠牲者が通った道順を案内してくれました。
    バスから降りるとまずは医務室に連れていかれ、医師の診察を受けます。
    ガブリエル:診察といっても実はただの名前の確認です。
    そしてこの1回の診察で医師は死因を決めました。
    そのために死因として60項目の病名リストがありました。
    例えば心臓発作とか肺炎、腸炎、盲腸などです。
    形だけの診察のあと一人、一人、身長と体重が測られ、写真が撮影されました。
    その後、シャワーを浴びると説明され裸にされて、地下に連れていかれます。
    この先がガス室です。
    12平方メートルほどの空間に、一度に50人ずつ押し込まれました。
    ガブリエル:ここにガスの管がつけられていました。
    藤井:これですか?この穴。
    ガブリエル:はい。ガス管がつけられていたねじ穴です。
    藤井:多い時には一日どれぐらいの人を殺害したんでしょうか?
    ガブリエル:120人です。それが毎日です。
    ガスが入れられた時間は、10分。
    その後、遺体は滑りやすく加工された通路を引きずられて焼却炉まで運ばれました。
    1941年8月までに6つの施設で犠牲になった人の数は、7万人を超えていました。
    ここでヒトラーは突然T4計画の中止命令を発表。
    このころからユダヤ人に対する迫害を更に激化させていきます。
    T4の殺害施設で働いていた医師やスタッフはアウシュビッツ強制収容所などでユダヤ人殺害に加担。
    T4で培われたガスを使って効率的に殺すという技術が引き継がれたのです。
    ガブリエル:障害者の安楽死計画はいわばリハーサルだったと言ってもいいでしょう。
    つまりこの行為はどこまで有効か、そして人々に反対されずにどの程度まで人間を機械的に大量殺害できるかを試したのです。
    この事によって大量殺害の歯止めがきかなくなっていったのです。
    終戦後、もう一つの事実が明らかになりました。
    T4作戦中止命令後も障害者の殺害は続いていたのです。
    「野生化した殺害」といわれるこの行為は、ハダマーだけでなく各地で行われていました。
    最終的な犠牲者は全国で20万人以上になっていました。
    藤井:仮に障害者が全てもし消え去った時にどうかっていうと、今度は次の社会的に弱い人、それは高齢者であったり、または病気の人、女性の病気の人、子どもの病気の人、絶えず弱者っていう人たちを探し当ててくるという、そういう弱者探しの連鎖っていう事…。
    これが優生学思想の怖いとこで、どんな戦争にもどんな悪行にも必ず最初があるわけですね。
    その段階でやはり気付く力、ここがやはり一つ問われてくる。

    価値ない人などいない―人間の尊厳―

    生きる価値のない人間などなくどんな人間にも尊厳がある。
    ハダマーでその事を再確認するもう一つの出会いがありました。
    父の妹にあたる叔母がてんかんのため殺されました。
    父と一緒に写る叔母、ヘルガさんの写真が残っています。
    しかしギーゼラさん、ヘルガさんが殺された事も、更に存在していた事さえ、最近親戚から聞くまで知りませんでした。
    ギーゼラ:叔母が殺された事は私にとって、とても悲しい事です。
    でも私に一番重くのしかかっているのは叔母の死ではなく、家族がずっと彼女の存在を消してきた事なんです。 
    それが今でも私はつらくてしかたないのです。 
    彼らが人間として存在する事がすごく大切です。
    犠牲者たちの遺骨が名もなく、どこかに捨てられるというのは私には耐えられません。
    会った事もない叔母のヘルガさん。
    ギーゼラさんは彼女を思って出した、新聞広告を見せてくれました。
    「ヘルガ・オルトレップ。あなたはナチスのいいなりになった協力者によって殺害された。そして家族によっても黙殺された。私はあなたを忘れない。あなたの姪、ギーゼラより」
    ギーゼラ:私は叔母の人間としての尊厳を彼女のために、取り戻したいのです。
    ハダマーの墓地には被害者たちを追悼する記念碑が建てられています。
    そこにはこう書かれています。
    「人間よ、人間を敬いなさい」年8月25日(火曜)

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