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【連載】新聞と9条
日本は戦後、戦争放棄の憲法9条を柱に平和主義の道を歩んできました。しかし、決して穏やかな道のりではありませんでした。新聞は9条の歩みをどう書いてきたのでしょうか。朝日新聞を中心に敗戦から近年までの報道や論評を連載で振り返ります。
- (新聞と9条:228)70年安保と革新自治体:33(03/30)
- 米軍基地内に住む自衛隊員の住民登録は、受け付けることができない――。 横浜市長の飛鳥田一雄(あすかたいちお)は1972年12月16日、米軍立川基地への自衛隊移駐を間近に控えた首都圏革……[続きを読む]
- (新聞と9条:227)70年安保と革新自治体:32(03/29)
- 「日本で修理の米軍戦車/南ベトナム到着」(1972年11月22日付朝日新聞) 96日ぶりに相模補給廠(しょう)から横浜港へ輸送されたM48戦車の行方を、サイゴン(現・ホーチミン)特派……[続きを読む]
- (新聞と9条:226)70年安保と革新自治体:31(03/28)
- 在日米軍車両の国内通行について協議する日米合同委員会の車両通行小委員会は1972年11月6日、外務省で会合を開き、M48戦車の搬送再開に合意した。強度不足が指摘されている、横浜市道の……[続きを読む]
- (新聞と9条:225)70年安保と革新自治体:30(03/26)
- 「戦闘車両フリーパス/米軍・自衛隊/あすから制限令外す 抜打(ぬきう)ちの政令改正/阻止の手掛(てがか)り失わす/野党が一斉に抗議」(1972年10月17日付朝日新聞) 1面に大見出……[続きを読む]
- (新聞と9条:224)70年安保と革新自治体:29(03/25)
- 1972年9月19日午前2時40分、米陸軍相模補給廠(しょう)の正門前で装甲車の搬出を止めようと座り込んでいた市民や学生約2千人を、機動隊員が排除し始めた。周囲の群衆は投石し、立て看……[続きを読む]
- (新聞と9条:223)70年安保と革新自治体:28(03/24)
- 米軍装甲車の輸送再開が迫っていた。 「ただの市民が戦車を止める」会(市民の会)の梅林宏道(78)らは、神奈川県相模原市の河津勝市長に、対話集会を開くよう求めた。市は輸送業者から、車両……[続きを読む]
- (新聞と9条:222)70年安保と革新自治体:27(03/23)
- 「相模補給廠(しょう) 米の縮小計画進む/戦車修理、来年七月まで/物資中継も中止へ」 1972年9月11日付毎日新聞は、相模補給廠の縮小計画を米軍がひそかに進めているという特ダネを報……[続きを読む]
- <お知らせ>春の新紙面、4月1日スタート(03/22)
- ■「ココハツ」 紙面に新風、若い世代へ 若い世代に向けて、若い記者たちが考えてつくるページが毎週土曜日の「ココハツ」です。合言葉は「私から始まる記事」。どんなニュースも個人の「個々」……[続きを読む]
- (新聞と9条:221)70年安保と革新自治体:26(03/22)
- 「市民立上(たちあ)がる/戦車阻止/2つのグループ誕生/相模原」 1972年8月24日付朝日新聞は社会面で、梅林宏道(78)らの「ただの市民が戦車を止める」会(市民の会)と、地元の医……[続きを読む]
- (新聞と9条:220)70年安保と革新自治体:25(03/19)
- 「戦車が帰るぞーっ」 どっと拍手と大歓声がわいた。 1972年8月6日午後11時40分、横浜市神奈川区神奈川通の米軍専用埠頭(ふとう)入り口近くの村雨橋前で、M48戦車を積んだ5台の……[続きを読む]
- (新聞と9条:219)70年安保と革新自治体:24(03/18)
- 「そこのけ 戦車のお通り/赤信号も突(つっ)走る/国道、まるで専用道」 1972年5月28日付朝日新聞は、ベトナム戦争に投入されるM48戦車が、神奈川県相模原市の米陸軍相模補給廠(し……[続きを読む]
- (新聞と9条:218)70年安保と革新自治体:23(03/17)
- 「戦車を追いかけてみないか」 1972年5月10日、朝日新聞首都部の中江敬之(81)は八王子通信局の山本博に声をかけた。中江は都内と近県をカバーする同部へ異動直後で、以前から山本とは……[続きを読む]
- (新聞と9条:217)70年安保と革新自治体:22(03/16)
- 自衛隊が立川へ「抜き打ち移駐」して間もない1972年5月初頭、朝日新聞社会部の石川巌(83)は、神奈川県相模原市の米陸軍相模補給廠(しょう)にほど近い、全駐留軍労働組合(全駐労)の支……[続きを読む]
- (新聞と9条:216)70年安保と革新自治体:21(03/15)
- 抜き打ちで部隊を立川基地へ移駐させた防衛庁を、各紙は厳しく批判した。 「隠密作戦至上に軍隊の素顔」 1972年3月8日付読売新聞は、1面の見出しでそう断じている。 ――移駐部隊が練馬……[続きを読む]
- (新聞と9条:215)70年安保と革新自治体:20(03/14)
- 一日の仕事を終えた雰囲気が、朝日新聞立川支局に漂っていた。1972年3月7日午後7時ごろ、支局長の古賀牧人(86)の眼前で、支局と東京・有楽町の本社をつなぐ専用線電話が鳴った。 「え……[続きを読む]
- (新聞と9条:214)70年安保と革新自治体:19(03/11)
- 基地の街・立川で初の革新市長となった阿部行蔵は1971年9月8日午前9時、市役所へ初登庁した。 市長選で阿部陣営を取材した朝日新聞立川支局の中江敬之(81)は、引き続き市政を担当した……[続きを読む]
- (新聞と9条:213)70年安保と革新自治体:18(03/10)
- 1971年7月1日、朝日新聞記者の中江敬之(81)は、北海道報道部から東京・立川支局へ転勤した。早々に、8月に予定されている市長選の取材を命じられた。 着任2日前、米軍機の離着陸が止……[続きを読む]
- (新聞と9条:212)70年安保と革新自治体:17(03/09)
- 「基地の町、立川が、十一月になってウソのように静かになった」と、1969年11月23日付朝日新聞は、米軍機が去った後の街の現状を紹介した。 「とくに夜は、二十年来住んでいる人が『山の……[続きを読む]
- (新聞と9条:211)70年安保と革新自治体:16(03/08)
- 革新自治体が相次いで産声を上げていた頃、東京の「基地の街」に転機が訪れた。 米軍立川基地の滑走路延長をめぐる砂川闘争。在日米軍は憲法9条に違反するとした「伊達判決」を最高裁が破棄して……[続きを読む]
- <お知らせ>「新聞と憲法9条 『自衛』という難題」販売中(03/08)
- 本紙連載「新聞と9条」が本になりました。非武装を唱える憲法を持ちながら、米軍駐留・再軍備の道を選んだ戦後日本。海外派兵は認めないという一線を引き、「自衛の力」の保持が容認された経緯を……[続きを読む]
- (新聞と9条:210)70年安保と革新自治体:15(03/07)
- 1971年の東京都知事選は「日本初のイメージ選挙」と言われる。 美濃部亮吉(みのべりょうきち)の陣営は「ストップ・ザ・サトウ」を掲げ、生活や環境の重視を訴えて「青空バッジ」を支援者に……[続きを読む]
- (新聞と9条:209)70年安保と革新自治体:14(03/04)
- 「佐藤首相は非民主主義、軍国主義化の道を歩もうとしている。ストップ・ザ・サトウの唯一の道は革新都政であり、革新自治体である」 統一地方選を春に控えた1971年1月22日、2期目に意欲……[続きを読む]
- (新聞と9条:208)70年安保と革新自治体:13(03/03)
- 1970年12月17日、三島由紀夫の割腹事件で行動をともにした「楯(たて)の会」(71年2月28日解散)の3人は、益田(ました)兼利・陸上自衛隊東部方面総監への監禁致傷、益田総監を救……[続きを読む]
- (新聞と9条:207)70年安保と革新自治体:12(03/02)
- 事件を前に、三島由紀夫は親交があった記者2人に意図を伝えようとした。 サンデー毎日の徳岡孝夫(86)と、NHKの伊達宗克(故人)だった。 三島と徳岡の初対面は、1967年5月28日。……[続きを読む]
- (新聞と9条:206)70年安保と革新自治体:11(03/01)
- 憲法改正を訴え、三島由紀夫らが陸上自衛隊東部方面総監部で自決した事件は、世間の注目を独占した。 「狂気の行動、改憲迫る」「“行動の美学”――狂った終末」「ナメるな…ぶっ殺せ/自衛隊の……[続きを読む]
- (新聞と9条:205)70年安保と革新自治体:10(02/29)
- 1970年11月25日の死から約2カ月前の9月14日、三島由紀夫は朝日新聞社会部記者、森本哲郎の取材に応じていた。 連載「70年代の百人」の一環で、場所は四谷の旅館だった。76年に退……[続きを読む]
- (新聞と9条:204)70年安保と革新自治体:9(02/26)
- ――おまえら聞け。おれは自衛隊が立上(たちあ)がるのを四年間待ったんだ。諸君は武士だろう。ならば自分を否定する憲法をなぜ守るのだ。なぜペコペコするのか。 これがあるかぎり諸君は永久に……[続きを読む]
- (新聞と9条:203)70年安保と革新自治体:8(02/25)
- 大学紛争は続いた。日米安全保障条約が10年間の期限を迎える1970年6月22日に向け、更にデモの激化が予想された。 東大で安田講堂の攻防がピークを迎えた69年1月、新聞各紙には「70……[続きを読む]
- (新聞と9条:202)70年安保と革新自治体:7(02/24)
- 4カ月近くに及んだ毎日新聞の連載「紙上国会」は、大きな反響を呼んだ。 戦時下に特高警察のでっち上げで雑誌編集者ら数十人が検挙され、拷問で4人が獄死した「横浜事件」に連座し、戦後は評論……[続きを読む]
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- 訂正して、おわびします(02/23)
- ▼22日付「新聞と9条200 70年安保と革新自治体5」の記事につく写真説明で、「共産党の宮本顕治書記長」とあるのは誤りでした。撮影時の1971年6月は、党幹部会委員長を務めていまし……[続きを読む]
- (新聞と9条:201)70年安保と革新自治体:6 (02/23)
- 毎日新聞「紙上国会」の最終節は、自民党への総質問(1969年4月6~26日付、21回)。幹事長の田中角栄、安全保障調査会長の船田中(なか)ら7人が答弁者だった。 野党は社会党の江田三……[続きを読む]
- (新聞と9条:200)70年安保と革新自治体:5=訂正・おわびあり(02/22)
- 毎日新聞「紙上国会」“共産党政権”編(1969年3月15~30日付、15回)の答弁は、書記長の宮本顕治、政策委員長の上田耕一郎、政治外交政策委員長の不破哲三(86)ら5人。自民党は前……[続きを読む]
- (新聞と9条:199)70年安保と革新自治体:4(02/18)
- 毎日新聞の連載「紙上国会」“民社党政権”編(1969年2月7~21日付、15回)は、書記長の春日一幸、外交委員長の曽祢益(そねえき)、教宣局長の永末英一ら5人が答弁に立った。自民の松……[続きを読む]
- (新聞と9条:198)70年安保と革新自治体:3(02/17)
- 社会党が政権を取ったら、安全保障政策はどうなるのか――。東大紛争で安田講堂をめぐる攻防が最終局面を迎えた1969年1月、そんな討論が、毎日新聞の紙面で繰り広げられていた。 題して「紙……[続きを読む]
- (新聞と9条:197)70年安保と革新自治体:2(02/16)
- 「陥落」後の安田講堂の壁に残された落書きを基にした立花隆(75)のルポ「東大ゲバルト壁語録(へきごろく)」は、「文芸春秋」1969年3月特別号に掲載された。 「ユーチャン、渋谷でまた……[続きを読む]
- (新聞と9条:196)70年安保と革新自治体:1(02/15)
- 1968年、世界は揺れ動いた。 3月16日、ベトナム・ソンミ村で米軍が住民約500人を虐殺。4月4日には米国で反黒人差別のキング牧師が射殺された。 5月、パリ中心部を学生ら約2万人が……[続きを読む]
- (新聞と9条:195)沖縄から:85(02/12)
- 日本では日米安保条約が憲法よりも上位にある――。 この連載のため、沖縄で取材を続けながら、私は何度かそう聞いた。 安保、それに関わる日米合意、地位協定、刑事特別法などの制度はいずれも……[続きを読む]
- (新聞と9条:194)沖縄から:84(02/10)
- 昨秋から今年にかけて、ある元新聞記者が沖縄を訪れた。 辰濃和男(たつのかずお)(86)。朝日新聞の編集委員などを務め、1969年の連載「沖縄報告」の取材班にも加わった。 取材で訪問す……[続きを読む]
- (新聞と9条:193)沖縄から:83(02/09)
- 普天間飛行場の代替基地について、1999年12月に名護市長、岸本建男(きしもとたてお)は移設容認を表明する。 だが反対運動は根強く、岸本も基地としての使用期限を区切るなどの条件を掲げ……[続きを読む]
- (新聞と9条:192)沖縄から:82 (02/08)
- 1997年5月3日。 日本国憲法の施行からちょうど50年に当たるその日、琉球新報1面に掲載された編集局長、三木健(みきたけし)(76)のコラム――。 「県民世論とともに歩む」と題し、……[続きを読む]
- (新聞と9条:191)沖縄から:81(02/05)
- 基地建設受け入れを表明した市長が辞任したことで、1998年2月、名護市長選が行われる。 普天間飛行場に代わる新たな基地を、市東岸の辺野古に建設することを市民はどう考えるのか。それが焦……[続きを読む]
- (新聞と9条:190)沖縄から:80(02/04)
- 沖縄本島の北部、名護市東岸にある辺野古崎は、アメリカ海兵隊の基地キャンプ・シュワブの敷地内にある。 珊瑚礁(さんごしょう)に囲まれたまわりの海には「イノー」と呼ばれる浅瀬が広がる。地……[続きを読む]
- (新聞と9条:189)沖縄から:79(02/03)
- アメリカ軍の飛行場がひとつなくなるものの、代わりの滑走路を沖縄で建設することになる。 日本とアメリカ両政府による普天間飛行場の返還合意は、時を移さず人々に不安と反発を広げた。 当時、……[続きを読む]
- (新聞と9条:188)沖縄から:78(02/02)
- その夜、沖縄がひとときの歓喜と興奮に包まれたのは確かだ。 特報したのは日本経済新聞だった。 「普天間基地、5年内返還 日米が基本合意 嘉手納に機能移転」(1996年4月12日付) 本……[続きを読む]
- (新聞と9条:187)沖縄から:77(02/01)
- 海辺の広場は大勢の人であふれ、国道58号には会場を目指す車が列をなした。 アメリカ兵による暴行事件の翌月、1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園で開催された「県民総決起大会……[続きを読む]
- (新聞と9条:186)沖縄から:76 (01/29)
- 反戦地主らの所有地を強制的に借り上げるための「代理署名」を、沖縄県知事、大田昌秀(90)が拒否した理由は、アメリカ兵による少女暴行事件だけではなかった。 広大なアメリカ軍基地をそのま……[続きを読む]
- (新聞と9条:185)沖縄から:75(01/28)
- 沖縄県知事、大田昌秀(90)の答弁で、議場には拍手とどよめきが広がった。 「今回の土地調書及び物件調書への署名押印は到底困難であるとの考えから、国に対して署名押印はできない旨の通知を……[続きを読む]
- (新聞と9条:184)沖縄から:74 (01/27)
- 「議論が走り過ぎている」 日米地位協定の改定を求めた沖縄県知事、大田昌秀(90)に対し、外務大臣、河野洋平(79)が否定的に回答したことは、現地で批判を浴びる。 「もう二度と沖縄には……[続きを読む]
- (新聞と9条:183)沖縄から:73(01/26)
- 怒りは静かに広がった。 事件が明らかになったのは1995年9月8日。翌週、女性たちの団体は記者会見をし、抗議書を読み上げて「最悪の犯罪」と断じた。 知事の大田昌秀(90)も会見で「基……[続きを読む]
- (新聞と9条:182)沖縄から:72(01/25)
- 心の痛む、この事件を書くことはためらわれるが、目をそむけるわけにもいかない。沖縄の「今」に直接つながっていることでもある。 1995年9月、昼過ぎのニュースが事件を伝えた。 少女を拉……[続きを読む]
- (新聞と9条:181)沖縄から:71(01/22)
- 防衛施設庁長官、宝珠山昇の「共生、共存」発言をどう考えるべきか。 記者会見を聞いた沖縄タイムスの記者、稲嶺幸弘(51)は、違和感が頭から離れなかった。当時、入社6年目で沖縄県政を担当……[続きを読む]
- (新聞と9条:180)沖縄から:70(01/21)
- それは記者会見での発言だった。 防衛施設庁長官に就任したばかりの宝珠山昇(ほうしゅやまのぼる)は沖縄を視察。知事の大田昌秀(おおたまさひで)(90)と会談した。 自民、社会、新党さき……[続きを読む]
- (新聞と9条:179)沖縄から:69(01/20)
- 「よく覚えちょる」 昨年12月、村山富市(91)は、地元の大分でゆっくりと語り始めた。 1994年6月、自民、社会、新党さきがけによる連立政権が発足。社会党委員長として首相になった村……[続きを読む]
- (新聞と9条:178)沖縄から:68(01/19)
- 河野洋平(79)は武村正義(81)と顔を見合わせた。 自民党と新党さきがけ、両党の党首と向き合い、協力を要請した社会党委員長、村山富市(91)はこう言った。 「どちらでもいい。大蔵大……[続きを読む]
- (新聞と9条:177)沖縄から:67(01/18)
- 時代の転換期をどう見つめるべきか。 自民、社会、新党さきがけ3党の連立政権が誕生し、「護憲」の象徴ともいえた社会党の首相、村山富市(91)が「安保堅持、自衛隊合憲」と表明したことは、……[続きを読む]
- (新聞と9条:176)沖縄から:66(01/15)
- 沖縄にとって、その衝撃は本土以上のものだった。 1994年6月、社会党委員長として47年ぶりに、村山富市(むらやまとみいち)(91)は首相に就任。自民、社会、新党さきがけ3党による連……[続きを読む]
- (新聞と9条:175)沖縄から:65(01/14)
- つなぎ合った手と手を、人々は空へ向けて高く掲げた。 1987年6月21日。沖縄本島中部に広がり、極東最大といわれるアメリカ空軍嘉手納基地のまわりを「人間の鎖」が取り囲んだ瞬間、大きな……[続きを読む]
- (新聞と9条:174)沖縄から:64(01/13)
- アメリカ海兵隊がキャンプ・ハンセンで実弾砲撃演習を行うたびに、県道104号は封鎖された。 1974年2月、「実力阻止」が行われる。反基地運動を担う原水爆禁止沖縄県協議会(県原水協)を……[続きを読む]
- (新聞と9条:173)沖縄から:63(01/12)
- その「合意」が問題になったのは、復帰からまもなく1年になる頃だった。 沖縄本島北部、名護市から恩納村、金武(きん)村(現在の金武町)などにまたがるアメリカ軍キャンプ・ハンセン。197……[続きを読む]
- (新聞と9条:172)沖縄から:62(01/08)
- 復帰後に配備された自衛隊について、沖縄タイムスの軍事記者、國吉永啓(くによしながひろ)(79)は、ある疑問を抱いていた。その規模が、思ったよりも小さかったからだ。 陸上自衛隊だけで数……[続きを読む]
- (新聞と9条:171)沖縄から:61(01/07)
- 東京・赤坂、防衛庁。 1971年の冬が近づくころ、沖縄タイムスの記者、玉城真幸(たまきしんこう)(74)は同庁の広報担当幹部を訪問した。 全国の自衛隊基地のリストを示し、すぐにも取材……[続きを読む]
- (新聞と9条:170)沖縄から:60(01/06)
- 復帰の内実がわかってくるにつれ、沖縄には失望が広がった。ただ、不安と憤りを抱きながらも、多くの人が復帰を受け入れようとしたのも事実だ。新聞社などが行った世論調査の結果にも表れている。……[続きを読む]
- (新聞と9条:169)沖縄から:59(01/05)
- 沖縄が返還されても基地は残す――。 1967年7月、外相、三木武夫と駐日大使ジョンソンとの会談で、日本が示した極秘文書「覚書」には、沖縄の果たすべき「軍事的役割(やくわ)り」と施政権……[続きを読む]
- (新聞と9条:168)沖縄から:58(01/04)
- 18・5%。 沖縄で、アメリカ軍が使う専用の基地・施設のうち、復帰後、2014年までに返還された面積の割合である。 今なお、基地面積は県全体の1割、本島の2割近くを占め、地域社会に計……[続きを読む]
- (新聞と9条:167)沖縄から:57(12/28)
- カメラマン、石川文洋(77)は、沖縄本島を走っていた。 1972年5月15日、復帰の日。 この時、34歳。「その日」の人々をカメラに収めたかった。 生まれは首里。太平洋戦争のさなか、……[続きを読む]
- (新聞と9条:166)沖縄から:56(12/25)
- 1972年5月15日――復帰の当日、沖縄ではいくつかの労働組合が抗議のストライキを行っていた。 新聞社の労組も例外ではなかった。一線記者たちは取材活動をせずに、代わりに組合に入ってい……[続きを読む]
- (新聞と9条:165)沖縄から:55(12/24)
- 1972年5月15日。 その日、沖縄は雨だった。 27年間に及ぶアメリカ支配は終わった。 統治していた琉球列島米国民政府(USCAR)のトップ、高等弁務官で陸軍軍人でもあるランパート……[続きを読む]
- (新聞と9条:164)沖縄から:54(12/22)
- 記者は取材と報道に徹するべきか、問題によっては民衆とともに闘うべきか――。 1971年9月、那覇市で開催された日本新聞労働組合連合(新聞労連)による新聞研究集会・特別分科会。本土と沖……[続きを読む]
- (新聞と9条:163)沖縄から:53(12/21)
- 泡盛が入るにつれ、沖縄タイムスの政経部記者、大山哲(78)は気持ちが高ぶるのを感じた。 那覇市中心部の飲み屋。 本土と沖縄、それぞれのメディアに勤める報道関係者たちの議論は激しさを増……[続きを読む]
- (新聞と9条:162)沖縄から:52(12/18)
- アメリカ軍が出した「防毒マスク着用」の条件は拒否――。 沖縄タイムス労働組合の結論を、社も了承した。沖縄から国外へ毒ガスを移送する「レッドハット作戦」で、軍が取材用バスを用意するなど……[続きを読む]
- (新聞と9条:161)沖縄から:51(12/17)
- 人々の生活に直接影響する事実に向き合う時、記者は「歴史の証言者」に徹するべきか、地域の一生活者であるべきか。 1971年、沖縄タイムス社内で交わされた議論はそのことに関わっている。 ……[続きを読む]
- (新聞と9条:160)沖縄から:50(12/16)
- アメリカ兵たちの激しいブーイングが響いた。 「反米騒動」とも呼ばれるコザ市(現・沖縄市)での事件の後、沖縄タイムスの記者、大山哲(78)は、現場を視察した琉球政府主席、屋良朝苗(やら……[続きを読む]
- (新聞と9条:159)沖縄から:49(12/15)
- 沸き立つ群衆をかき分けて、騒乱の中心にたどり着いた。発砲音が響き、暗闇に炎が上がり、タイヤの焼ける臭いがした。 沖縄・コザ市(現・沖縄市)の中心街、中の町。1970年12月20日未明……[続きを読む]
- (新聞と9条:158)沖縄から:48(12/14)
- その日は週末だった。 1970年12月19日、沖縄・美里村(現・沖縄市)の美里中学校で、毒ガス兵器の撤去を求める県民大会が開かれていた。 前年、すでに日本とアメリカ両政府は沖縄返還を……[続きを読む]
- (新聞と9条:157)沖縄から:47(12/11)
- 沖縄は、アメリカ軍のあらゆる軍事機能を負わされた「基地の島」――。 1969年7月、基地内で起きた毒ガス漏れ事故で、人々はその事実を改めて思い知らされる。 その年11月の首脳会談で、……[続きを読む]
- (新聞と9条:156)沖縄から:46(12/10)
- その事故が、沖縄のアメリカ軍基地の中で起きたことは、伏せられていた。 1969年7月、沖縄返還の日米交渉は核兵器の問題などをめぐって、まさに山場を迎える時だった。 7月18日付のアメ……[続きを読む]
- (新聞と9条:155)沖縄から:45(12/09)
- 1969年11月22日、日米の返還合意に際し、沖縄タイムス夕刊の1面に掲載された社説の引用を続ける。 憲法9条の理念に近づくために――。 「憲法体制が指向するものと、空洞化の実態に直……[続きを読む]
- (新聞と9条:154)沖縄から:44(12/08)
- 1969年11月22日(日本時間)、沖縄返還が合意され、戦後四半世紀に及ぶアメリカ統治の終結が決まった。 日米首脳会談を取材するため、アメリカに派遣された沖縄タイムスの記者、又吉稔(……[続きを読む]
- (新聞と9条:153)沖縄から:43(12/07)
- 沖縄返還を議題とする日米首脳会談で、日本の新聞は連日、アメリカ軍が貯蔵する核兵器の問題を報じた。 朝日新聞アメリカ総局長、木谷忠と東京本社の政治部から特派された冨森(とみのもり)叡児……[続きを読む]
- (新聞と9条:152)沖縄から:42(12/04)
- 返還までに、沖縄に貯蔵された核兵器をすべて撤去すること――核抜き。 紛争などの緊急事態では再度、核を貯蔵、通過させること――有事再持ち込み。 後者が秘密合意にあたるものだ。 元京都産……[続きを読む]
- (新聞と9条:151)沖縄から:41(12/03)
- 表題に「1969年11月21日発表のニクソン米大統領と日本の佐藤首相による共同声明に関する合意議事録」とある。 左上に「TOP SECRET」(機密)、2枚目には2人の首脳の署名。 ……[続きを読む]
- (新聞と9条:150)沖縄から:40(12/02)
- 彼と出会ったのは、特派員としてアメリカにいたころだった。朝日新聞記者だった松山幸雄(85)はそう思い返す。 アメリカに出入りしていた日本人の国際政治学者の一人で、若く鋭そうな印象を受……[続きを読む]
- (戦後70年 戦争と新聞)なぜ戦争協力の道へ(12/02)
- かつて日本が戦争への道を進んだ時代に新聞は何をしたのか。当事者の記者たちは戦後どんな思いを抱いて生きてきたのか。そこからくみ取るべき教訓は何か。安保法制が成立し、再び戦争と平和が問わ……[続きを読む]
- (新聞と9条:149)沖縄から:39(12/01)
- 憲法と沖縄――。その隔たりを、彼は考え続けてきた。 新川(あらかわ)明(84)。沖縄タイムスの記者で後に社長となる。 沖縄返還に向けた日米交渉が続く1969年、タイムスに連載「疎外の……[続きを読む]
- (新聞と9条:148)沖縄から:38(11/30)
- 朝日新聞が1969年に連載した「沖縄報告」にこんな言葉が出てくる。 「あんなもの(B52)日本に持って行けばいいんですよ。私はいいますよ。ああ、日本に持って行け。君たち(と、記者をに……[続きを読む]
- (新聞と9条:147)沖縄から:37(11/27)
- 朝日新聞の連載記事「沖縄報告」は、1969年5月から10月まで、通算100回に及んだ。 年内にも行われる日米首脳会談に向け、沖縄返還は注目のニュースだった。政治部、社会部など各部から……[続きを読む]
- (新聞と9条:146)沖縄から:36(11/26)
- 沖縄と本土を隔てる「北緯27度線」。 1969年4月28日、双方から船を繰り出して復帰実現を求める「海上大会」を取材するため、朝日新聞の社会部記者、轡田(くつわだ)隆史(79)は、沖……[続きを読む]
- (新聞と9条:145)沖縄から:35(11/25)
- 沖縄本島を出港した船は北へ向かった。 船団と合流し、やがて本島最北端、辺戸(へど)岬から十数キロ北へ。そこで本土側からも船団が到着する。 北緯27度線――。沖縄と、日本に返還された奄……[続きを読む]
- (新聞と9条:144)沖縄から:34(11/24)
- 沖縄の日本への復帰は、少しずつ現実味を帯びていた。 1968年5月、日米両政府は施政権返還に向けた協議を開始。駐日大使ジョンソンは外相の三木武夫に、沖縄のアメリカ軍基地の機能について……[続きを読む]
- (新聞と9条:143)沖縄から:33(11/20)
- 「もういやだ。『血まみれのドル』では食べたくない」 1968年4月24日、朝日新聞那覇支局長、井川一久(81)が、アメリカ軍基地の食堂で働く若い女性から聞いた言葉だ。 死地へ向かう兵……[続きを読む]
- (新聞と9条:142)沖縄から:32(11/19)
- 「『核抜き』での沖縄返還など難しい。とくに政治部の考え方はそうだった」 朝日新聞のアメリカ特派員だった冨森叡児(とみのもりえいじ)(87)は、返還合意前の朝日新聞社内の雰囲気をそう振……[続きを読む]
- (新聞と9条:141)沖縄から:31(11/18)
- 沖縄に置かれた核兵器を撤去することは可能なのか。 1967年11月、首相の佐藤栄作はアメリカ大統領ジョンソンと首脳会談を行い、沖縄返還を協議。やがて日米両国の交渉は本格化へ向かう。 ……[続きを読む]
- (新聞と9条:140)沖縄から:30(11/17)
- 沖縄返還に異論を唱えた笠(りゅう)信太郎のコラムが朝日新聞に掲載されてから9カ月後の1968年7月だった。 朝日新聞のアメリカ特派員、冨森叡児(とみのもりえいじ)(87)が、前駐日大……[続きを読む]
- (新聞と9条:139)沖縄から:29(11/16)
- 沖縄返還は時期尚早――。1967年、朝日新聞に掲載されたコラムでそう主張した元論説主幹の笠(りゅう)信太郎は、根っからの護憲論者だった。 太平洋戦争開戦の前に特派員として欧州に渡った……[続きを読む]
- (新聞と9条:138)沖縄から:28(11/13)
- 笠(りゅう)信太郎は、一般的に「リベラル」といわれる戦後の朝日新聞の論調を築き上げた一人だ。 戦時中、著作などで官憲ににらまれた。戦後は論説主幹を務めた1948年からの激動の14年、……[続きを読む]
- (新聞と9条:137)沖縄から:27(11/12)
- 沖縄を日本に復帰させるため、アメリカの軍事機能をどうすべきか。本土の記者はどう考え、新聞はどう報じたか――。 少し時間を戻そう。 1967年、アメリカでのことだ。 朝日新聞の特派員だ……[続きを読む]
- (新聞と9条:136)沖縄から:26(11/11)
- 沖縄にはいったいどんな部隊が配備されているのか。 アメリカ陸軍の第7心理作戦グループは以前から問題になっていたが、暴露会見後の1971年4月22日、衆議院の沖縄・北方問題特別委員会で……[続きを読む]
- (新聞と9条:135)沖縄から:25(11/10)
- その告発者は、おとなしそうなアメリカ人青年だった。 アメリカ陸軍の2等軍曹、デイビッド・ポプリン。当時20代。沖縄に駐留していた「第7心理作戦グループ」に所属する下士官だった。 19……[続きを読む]
- (新聞と9条:134)沖縄から:24(11/09)
- 沖縄のアメリカ軍基地の敷地内。兵士にビラを手渡したり、人の集まる場所にまとめて置いたり。ベトナム戦争に反対する「反戦米兵」のグループに連絡するよう求める言葉が書かれている。 「ビラを……[続きを読む]
- (新聞と9条:133)沖縄から:23 (11/06)
- クイック・キリング・トレーニング――「早殺し訓練」とでも訳すのだろうか。 復帰前の沖縄。朝日新聞那覇支局長だった井川一久(81)がそれを見たのは、かつて本島北部・宜野座村にあったアメ……[続きを読む]
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